顔は、わたしの心の動きのすべてを記録した「折れ線グラフ」か。

 

わたしの母は今年90歳になりましたが、

グループホームの家庭的で手厚い介護によって

穏やかに元気に過ごしています。

 

 

髪も、服も、いつもきれいにしていますが、

そこにいる人の誰もお化粧はしておらず、

みんな、グレー系などの地味なワンピースやズボンを着ていることが多いので

髪型や服装やお化粧ではまったく「差」がつきません。

 

 

さらに高齢になると

極端に太っている人もいなくなるようで

肥満度やプロモーションにも「差」はなくなります。

せいぜい、背が高いか低いかぐらいでしょうか。

 

 

もう少し若いときには、

「髪の毛の長い、スタイルのいい人」とか

「メイクの上手なオシャレな人」とか

「キレイだけど若作りの人」とか、

「高そうな服だけど、センスがいまいちの人」とか

いくらでも評する言葉がありますが、

もっともっと年をとり、

母のように介護の必要な状態になると、

そういう「差」は少しずつ消えていくようです。

 

 

あ、でも、

「背が高くて色の白い人」

「色が黒くて白髪の人」なんかはあるな。

色白、色黒、大柄、小柄なんかは永遠の目印かも(私は色黒)。

 

 

そんなふうに髪型や服装やメイクで差がつかなくなると、

「顔」がたくさんのことを主張します。

ほとんど顔だけが主張するといってもいい。

 

 

もって生まれた「目鼻立ち」や「輪郭」が

「それまでの人生でもっとも多く浮かべてきた表情」によって

次第に浸食され、隆起してできあがった顔という雄弁なオブジェ。

 

 

顔て、やっぱり、すごいなあ。

 

 

柔和な顔

偏屈な顔

とぼけた顔

いじわるな顔

おしゃべりな顔

孤独な顔、顔、顔。

 

 

顔は、

人が病んだり、衰えたり、老いたりしたとき、

不思議にその「本性」のようなものを表すように思います。

 

 

他人に見られていることを意識し

取り繕う余裕をなくしたとき、

顔はむしろ、自由に解き放たれて

その人独自の造形を露にする。

もう、キレイである必要すらない。

解き放たれた顔とでもいえばいいのか。

思うがままの顔であればいいというのか。

 

 

もうそうなると、あれですね。

 

 

顔に責任なんて持てませんね。

何かを決意してもムダだもの。

その決意の裏の「小賢しさ」だって刻まれるでしょうし。

 

 

顔ってもしかしたら、

今の行動と次の行動、

今の気持ちと次の気持ち、

この感情とこの感情の処理の行方といった

「わたしの出合った事と心の動き」の折れ線グラフみたいなものかも。

 

 

あ、だからといって

何の手入れもしなくていいってことではないんですけどね(笑)

そんなことを長崎に帰るたびに思うのでした。




こちらのコメント欄に韓国のジョークが紹介されています。「50歳になると、美人不美人の差がなくなる…」それ以降は?なるほどと納得(笑)


★昨日は、こっちに書いていたのでした。よければどうぞ♪
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自分の顔の「年輪」にも、慣れねば。


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