「クスッと笑いあえるところ」に 理解の触手を伸ばしたい。


非モテのエリート街道を歩いてきた娘に
成人式を前に彼氏ができたようで
大変にめでたいのですが、


その彼のおかあさんが、
家族の間で、うちの娘を「ゆりボン」と
呼んでいるらしいのです。


「ゆり」は、娘の名前(仮名)
「ボン」は、彼のおかあさん愛用の接尾辞(接尾辞でいいのか)。


このおかあさん、
最初に犬を飼ったとき、
「らら」を「ららボン」と呼ぶようになり、
もう一匹の犬がやってくると
「ららボン」は「らら」に戻り、
新しい犬を「サムボン」と呼ぶようになり、
今回、娘が登場したところで、
「サムボン」は「サム」に戻り、
娘が「ゆりボン」になったらしいのです。


ららボン(犬)→サムボン(犬)→ゆりボン(人間)


移行する「ボン」。
継承される「ボン」。


「おかあさん」の心中で催される
戴冠式ならぬ「戴ボン式」。


わたしも、パロンという犬がいたときには
「パロすけ」「パロリン」「パロパロ」「パロにゃん」と
ありとあらゆる接尾辞をつけて
溺愛してきたし、
幼いころの娘にもいろいろつけてきたので、
何か、こう、自分よりも未熟な存在に
オリジナルの「呼称」をつけたくなる気持ちは
ヒジョーによくわかります。


もちろん、それだけでなく
突然、「わが家族」というテリトリーに現れた若い女に
ある種の戸惑いや照れくささもあって
「ボン」が授与された面もあるでしょう。
新参者を受け入れようとする葛藤の表現かもしれません。


一度も会ったことも、話したこともない「おかあさん」ですが、
犬にも人にも「ボン」をつけて呼びならわすところに
おもしろさと親しみを感じました。


もし、会うことがあったら、


「ボン、つけちゃいますか」
「つけちゃいますねえ」
「わたしは、ピョンをつけがちなんですよ」
「あら。ピョンは、ちょっとウサギっぽくないですか」
「いやあ、ボンは小僧のようでしょう。坊さんっぽいともいえる」


・・・なんて話ができたらいいな(笑)。


いや、若いふたりのことだから
明日の気持ちはわからないし、
「おかあさん」と会うことなどないかもしれません。
それはそれでよし。


ただ、だれかと知りあうときに
「やわらかいところ」
「クスッと笑えるところ」に
理解の触手を伸ばしあえたらいいなあと思います。



わたしにとって「ボン」は
「やわらかくて、クスッと笑えるところ」であり、
その人をなんとなく好きになれそうなポイントでした。


今年も、どんな人と出会い、
どんな関係を結ぶかわかりませんが、
「何をする人か。どんな所属か」といった看板に注目するのでなく、
「やわらかくて、どうでもよさげなところ」を見つけて
そっと触手を伸ばし、
クスッと笑いあえたらいいなあと思います。


今年もどうぞ、よろしくお願いします。


おみくじは、「末小吉」でした。
冴えなさすぎだろ!!




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渾身の味は「感動」を作り、 頻度の味は「世界」を作る。


1月4日に放送された
NHKスペシャル「ばっちゃん~子どもたちが立ち直る居場所~」を見てから
「たてつづけに作られる味」について考えていました。


広島の市営住宅に住む82歳の元保護司・中本忠子さん(ばっちゃん)は、
「子どもは、おなかがすくと悪いことをする」という哲学のもと、
ずっと台所に立ってごはんを作り、
家にふらりとやってくる少年・少女に食べさせていました。


画面に映る親子丼やカレーライス、おにぎりは、
「特定のだれかのために粋を凝らして」作られたものじゃなく
「ここにやってくるだろう複数の子どもたち」のために
一日に何回も「たてつづけに」作られる料理です。
(休日のおにぎりは3升の米で何度も握られます。
ラップなし。想像だけど塩気が効いておいしそう!
ばっちゃんの手のひらの常在菌もおいしさの秘密だ!)
子どもたちは、おなかをすかせて来るので
パパっとすぐに食べさせられるものでないといけません。


子どもが来る。
ごはんが出る。


この間に少しでも余計な段取りが加わると、
子どもたちはもう来なくなるんでしょうね。
だから、やってくるとすぐにごはんが出る。
ごはんを出してから、
ばっちゃんは、ちょっと大儀そうに座って
ぶっきらぼうな口調で話をしていました。


ばっちゃんの料理には、
「たてつづけに作られるもの」の味が
あるんだろうなあ。
子どもたちに過度な感謝を要求しない
「たてつづけの味」。


今日も明日も作る。
一日の間に同じものを何度も作ることもある。
そして飾り気なく供する。


料理には、
何時間もかけて趣味的に作られるものもあれば、
細部にこだわって作られるものもあれば、
毎日3回家族のために作られるものもあれば、
毎日夜だけに作られるものもあれば、
ごくまれに挑戦するように作られるものもある。



頻度がつくる味。


というものがあり、


「頻度」が許容できる関係もある。



ある特定の人のために
時間をかけて作られた料理は、
唯一の人の賞賛と感謝を前提としているもんね。


渾身の味は「感動」を作り、
頻度の味は「世界」を作る。



そんなことを思いました。


頻度は継続でもあるもんね。
さまざまな造作なく見える繰り返しが
豊かな世界を作っているんだなあ。



NHKスペシャル「ばっちゃん~子どもたちが立ち直る居場所~」は、
1月14日に再放送されるようですよ。




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わたしたちは自然を御して生きている。「人生フルーツ」も。


1週間以上も間が空いてしまいました。


長年ブログを書いてきて、すっかり習慣になっているようでも
いつも以上に間が空いてしまえば、
ブログの記事を書くことと
自分自身との間に「疎遠」な感じが漂います。
なんか、ちょっと他人行儀になってしまう。


なんなんでしょうね、この感覚。


いま、人口減少に伴い、
空き家問題に関心が集まっています。
人が住まなくなると、
家には草が生え、ツタがからみ、
金属は錆び、木は朽ち、
すき間から動物が入り棲む。


その変化を目の当たりにすると、


家というものは、
人が「自然を御していた」のだ。
「住む」というのは、
ある意味、「力づくの行為なのだ!」と
驚嘆するような思いで見つめてしまいます。



これ、「家」に限ったことでなく、
わたしたちは、常に
さまざまなものを「御して」(制圧して)生きていて
放置する時間が長くなると
何かがモヤモヤと増殖をはじめるんじゃないでしょうか。


こう、わたしとブログを更新するという行為の間にですね、
わたしがコントロールできない生命体が入り込み、増殖し、
その割合が増えて、圧におされる。
その圧を「疎遠」と感じるのではないかと思ったりするのです。


今日、「人生フルーツ」を観てきたのですが、
このおふたりの丁寧で豊かな暮らしからも、
「自然を御する」絶え間ない営みと
圧倒的なエネルギーを感じました。


雑木林のような庭をつくりつづけること、
収穫物を料理すること、
そこに楽しいプレートを飾ること、
手紙を出すこと…。


それは、ひとときたりとも
手を緩められない
「自然を美しく御する」生活です。


あれですね。
面倒くさいという感覚は
ある意味、「御さない」という、
もう、自然に朽ちゆくに任せるという
消極的な意思表明でもあるわけですね。
(だから多くの人は、老いとともに
あらゆることを面倒がるのだなあ)


御そう。みんな。
自分にできるかたちで
御していきていこう。
できれば、美しい方向に。


継続とは、制圧しつづけることなり。
コツコツもまた。





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「たまごかけごはん」を見よ!スタンダードは上書きされるのだ。


この前、テレビを見ていたら
「たまごかけごはんは、どのようにして食べるか」
という調査をしていました。


選択肢は、以下のふたつです。


(1)たまごを小鉢に割って箸でかきまぜて、ごはんにかける。
(2)たまごをそのままお茶碗のごはんの上で割ってのっける。



(1)は、
tamago2.png

こういうことで

(2)は、
tamago.png

こういうことです。


どちらが多かったと思います???


(2)のたまごをそのままお茶碗のごはんの上で割ってのっける。
が、やや多いという結果でした。


むむ、そうなのか。「そのままのっけ方式」が多いのか。


「たまごかけごはんはこうやって食べるべきだ!」
なんてことを言うつもりは
さらさらありませんが、
いつの間にそうなったのだろう?と思ったんです。


この「そのままのっけ方式」は、
たまごかけごはんが、ある時期ブームになり
たまごかけ専用醤油やたまごかけ専用スプーンなどが発売されたころからの
どちらかといえば「新しい方式」ではなかっただろうかと。



もちろん「わたしの家は代々、そのままのっけ方式でやってきました!」という方も
いるでしょう。いるでしょうが、
たまごかけごはんが旅館の朝食の定番だった時代、
老いも若きも男も女も、小鉢でたまご叩いてごはん、
していませんでしたか??


小鉢に割る→醤油を入れる→好きな程度にかきまぜる→好みでごはんに穴をあける→そろりとたまごをかける


という手順です。


何ごとも上書きされるのだ。


と思ったのですよ。
この「たまごかけごはん調査」で。


時とともに上書きされるのだ。
スタンダードは変わっていくのだ。



ためしに、たまごかけごはんで画像検索すると
こんな感じで「そのままのっけ方式」の画像
ずらりと並んで壮観です。
いまや、たまごかけごはんは、
このようにして食べるものなのです!


それにしても、たまごって、
このところスターですよね。超売れっ子。


いろんな料理(麺や丼)に
そのまんまのっかってるし、
「ふわとろ」といえばたまごだし、
たまごサンド(たまごが焼いてあるやつ)も
このところ人気だそうだし、
フレンチトーストもそうだし、
半熟煮たまごなんかもそうだし、
だし巻きたまごもちょっときていませんか!?


「生」と「固焼き」の間にある
やわらかさの段階を
無限に細分化して慈しむような食感愛の極致!


日本人のエロスの幾分かは
たまごの食感によって
占められていませんかね??


あれ?なんだか「たまご語り」みたいになりましたが、
この「たまごごはん」の話をオバフォーのメンバーにしたら
意外に「たまごかけごはんが好きじゃない」人が多くて
そのことにも驚きました。
わたしも、それほど好きじゃありません。
(ここまで熱弁をふるったくせに。ごめん)


この話題や「高梨沙羅選手の眉メイクが気になる」など
「どうでもいいけど気になる事柄」を
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「気にしない人」は、本当に何も気にしていないのか。


「気にする人」のことはみんなとても気にするけれど、
「気にしない人」のことはみんな気にしない。


ほんとだ!と思いました。


わたしが考えたことじゃなくて
はらぷさんという人が書いた文章です。


「気にする人」のことはみんなとても気にするけれど、
「気にしない人」のことはみんな気にしない。


ああ。そうだなあーーー。


文章は、さらに続いていて


で、世の中「気にする人」をケアする方向にいくんだけど、
それは多分正しいことなんだけど、
そうすると「気にする」「気にしない」の中間点が
ちょっとだけ「気にする」方向にずれるというか、
そういう一面もある気がする。




「気にする」「気にしない」の中間点が
ちょっとだけ「気にする」方向にずれる。




ああ、このビミョーな感じ、何度か感じてきたけど
言葉にしたことがなかった。
というか、できなかったなあ。


趣味のつきあいや
会社の仲間。
ママ友でも、
同窓会で復活した友だち関係でも
なんでもいいです。


ラインやメールのやりとり、立ち話のなかで
どうしても発生してしまう、
ちょっとしたことを「気にしてしまう」ことと
自分以外の誰かが「気にするのではないか」
ということへの配慮と配慮しきれなさと
それにともなう終わりのない不安と自問自答。


「気にするのではないか」と気づかえば気づかうほど
「気になって仕方がなくなるが、直接聞くわけにもいかない気がする」
という心に長引く鈍痛!!そしてそれに耐えきれずイヤになる人間関係!


どんな場でも、
「気にする」方向へ中間点が大きくずれてしまうと、
「誤解されること」への恐れが増し、
言葉選びをやや多めに「用心」するようになり、
いつの間にか、その場から魅力が消えていくんですよね。
たとえば、「ユーモア」が。
あるいは「アイデア」が。ときに「自由」が。


しかも、


「気にする人」のことはみんなとても気にするけれど、
「気にしない人」のことはみんな気にしない。



そうなんだよなあ。


「気にしない人」は本当に何も気にしていないのか?


という問いは、意外なほどにだれからも呈されず、
鈍感なままで放置されます。


「気にしない」(ように見える)人の心のなかに
「気にする人」のような葛藤はないのか。


私たちのからだの免疫機能が、
常にウィルスや細菌と戦って
かろうじて勝利をおさめ、
「健康な状態」が保たれているように
「気にしない人」も、
こころの免疫機能によって
かろうじて「気にしない状態」が保たれているのかもしれない。


個人個人の「気にする」を
「そんなの考え過ぎ」とかって無視するんじゃなくて、
それはそれで「あり」なんだけど、
世の中全体的には気にしないほうが楽だよ、
ってほうにいかないかなあとか連想してしまった。
理想論ですけどね。



「気にする」ことは繊細さを装っているけれど、
だからといって万能ではなくて
「やさしさ」や「細やかさ」にもなれば、
「窮屈さ」や「不正直さ」にもなる。
そのことは、憶えておいて損はないと思いました。


・・・とここまで書いて、
はらぷさんはもう少し大きな単位(世の中)で書いているのではないか!
と思いいたりましたが、
多少の誤解は許してくれるでしょう。
気にしないでそのままにしておきます。


はらぷさんはウェブマガジン「どうする?Over40」
月に一度書いてくださっています。
はっとするところが毎回、いくつもある連載です。ぜひ。→「なんか、すごい」
はらぷさんのブログはこちら。過去記事もどうぞ→sproutおぼえがき





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