自分が自分を生きている喜びは、親子関係の外にしか見つからない。



日曜日、娘の彼氏が遊びに来て
ふたりで「世界の果てまでイッテQ」を見ていました。
台所からときどきのぞくと、
娘はものすごく楽しそうに笑っています。
「ああ、これは親には決して引き出せない笑い声だ」と思いました。


その笑い声は、
「自分が自分を生きているときの笑い声」といえばいいでしょうか。


心が解放されている。
おもしろさ、が共有されていて心地よい。



そんなときの笑い声。
微量の甘えや媚態も含まれています。


ああ。こうやって「家」は「実家」になるんだなあ、と思いました。


結婚するか否か、ではないんです。
そんなことは、だれにもわからないし、
どちらでもいい。


かつて自分にも覚えのある、
「家」以外に居心地のいい場所や関係が見つかったときの
自立の宣言ともいえる笑い声です。


自立って必ずしも生真面目な発言や大胆な決別として
表れるものじゃないんですね。それは、むしろ形式にすぎない。
笑い声や目の輝きとして鮮烈に表れるものなのかも。


娘がいま全身で表している喜びや充実感は、
親であるわたしには決して与えられないと思いました。


そういえば、相手を喜ばせたい、
喜びを与えたいと思いながら
与えられなかった別の記憶もあります。


それは、親に対しての記憶。
今度は、自分が「子」のケースですね。


両親はすでに亡くなっていますが、
親の老いが深まりつつあるころ、
「親というものは子どもといると幸せらしい
(たとえ、すでに子がオバチャンになっていても)」と思い、
いろいろ工夫したり、努力しましたが、
両親の「自分が自分を生きているときの笑い声」は引き出せませんでした。


「親孝行」が与える喜びって
大したことないんだな。
親も「喜ばなくちゃ」と気をつかうだろうし、
なかなか大変だな。
(親孝行にもいろいろあるでしょうから
一概にはいえませんが)なんて思いました。


両親は、夫婦ふたりだけでいるときや
気心の知れた友だちといるときに
心を解放し、
おもしろさを共有できる安心感で
思いきり笑っていたのかもしれません。
きっとそうだろうなあ。


親子は、もちろん喜びを与えあえる関係ですが、
ある時期を過ぎてしまうと、
「自分が自分を生きているという喜び」は与えられない。
親から子にも、子から親にも。


その喜びは、親子関係の外にしかないんですね。


だから、無理しなくていいし、
無理しちゃいけないともいえる。





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