この瞬間を記憶のなかに「ピン留め」する。あえて。意図的に!


先週の金曜、ドッグラン付コテージに一泊してきました。


「露天風呂付客室」が、風呂入り放題なら、
「ドッグラン付コテージ」は、犬放し放題。


わたしと夫は、テラスでゆっくりとコーヒーでも飲んで
ドッグランで駆け回る犬を見つめていましょうか。
ついでに肉やら野菜やらをジュージュー焼きながら
駆け回る犬を見つめていましょうか。
うっとりするような脳内想像図。


実際には、コテージとは名ばかり、
布団とミニキッチンとトイレがあるだけの狭い部屋で、
ドッグランは、手入れの行き届いていない狭い庭でしたが、
広大なキャンプ場には、
おそらく私たち夫婦と、もう一組の家族のみ。
その家族の姿もかなり歩かないと見えません。


しかも、この人数にもかかわらず
管理棟には露天風呂付大浴場。
そう!露天風呂付個室ではなかったものの
露天風呂付キャンプ場だったわけです。
むろん、広いお風呂にただ一人。ポチャン。
木製の風呂桶も椅子も本日、使われた形跡なし。
カラカラのピカピカです。


おばちゃん、なんなら泳いでよし。
踊ってよし。歌謡曲のひとつも歌ってよしの極楽世界。


そんなこんなでひとり心ではしゃぎつつ、
体を伸ばせるだけ伸ばしながら、
あえて、意図的に、しっかりと言葉にしました。
自分に言い聞かせたといってもいいです。


わたしの人生にいま、欠けたものはないぞ。
この瞬間を記憶にピン留めしておくんだぞ。



風呂がいわせた深イイ言葉。


しかし、そう意識して脳内で言葉にすると
近しい人たちの顔が浮かんでくるんですね。
姉ちゃんの顔も浮かべてやりましたよ。
このブログやオバフォーをはじめてから出会った
友だちの顔も浮かびました。


ほかのだれかと比較するなら
わたしの人生に「欠けているもの」など
いくらもあるでしょう。
重々、わかっています。
でも、50代も半ばを過ぎ、
そんなことは、もういいや、と思うようになりました。


昨年末に再び犬と暮らすようになって
その思いはますます深くなっています。
犬を理由に仕事もいくつか断りました。
長期の海外旅行に夫婦で行くことは
きっと犬がいる限り、難しいでしょう。


わたし自身がそういう「これから先」を選んだ、
ということであり、それでいいんだ、
と露天風呂に浸かりながら思ったわけです。


あまたの小さな選択のうえにある「今」を受け入れ、
この選択の先にある未来を先取りして悔やむまい。



少しかっこつけるとそういうことでしょうか。


ドッグランは、ドッグ1一匹では、ランしない上に
突然の雷雨で
「コーヒーを飲みながら駆け回る犬」を愛でることは
かないませんでしたが、
ノーリードで散歩するという喜びを味わえたのでよしとします。


みなさんは、どんなGWを過ごしていますか。
こちらにわたしもコメントしています
どこにも行かず、5月の光を屋内から見ているのもいいですねえー。





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どの家庭も、どの人生も平らかでなく、悲しみも一様じゃない。


昨日、お隣のYさんの奥さん
(うちではYさんのおかあさんと呼んでいる)がやってきて
「6月いっぱいまでいないから、
もしうちの順番が後だったら、回覧板は飛ばして」と頼まれました。


「はーい。わかりました。あ、でもYさんのおとうさんは?」
「いないから」
「あ。旅行かなんか?」
「亡くなったよ。3月に」


子犬を抱っこして見せに行ったこと、
そのときに「おお、これか、この子か」と言ってくれたこと。
Yさんのおとうさんが母校の同窓会に
ファクスを送ってくれとうちにやってきたこと。
あれはすべて2月だったのか。


Yさんの家に忌中を示す印はなく、
大勢の人が訪ねてくる気配もなく、
マンションの掲示板にお葬式の告知もありませんでした。


「管理組合には言ったけど
もう、そういう掲示はしないことになったって。
家族葬の時代だからって」


そうだったのか。


「でも、回覧板にわたしの名前を書いてたでしょ。
世帯主が変わったから。わたしの名前」


あああ。そんなふうに回覧板の名前を見る、
という意識も習慣もなかった。
回覧板には機械的に苗字だけを書いて
ハンコを押して次のおうちのポストに入れる。
さらに自分に「夫の名前でサインする」という意識が薄れているため
Yさんが奥さんの名前だと気づいたにしても、
「あ。奥さんがサインしたのね」としか思わなかったに違いない。


Yさんの奥さんは、
もちろんマンション内の親しい友人には伝えたでしょうから、
わたしが、そんな存在じゃなかったのは言うまでもありませんが、


いつの間にか死んじゃって
いつの間にかいなくなっちゃった。


地域での告知もない。
その家に誰かが訪れる気配もない。


一度、子犬が留守番中に鳴いていたので
あわててYさんちを訪ね
「ずっと吠えてましたか!?」と聞きに行きました。
あのとき、すでに亡くなっていたのか。


Yさんの奥さんは、
「うちには位牌もなにもないの。
みんな、長男が持っていった。
猫ももらってくれる人にあげてしまった。
金魚も死んだ」


と悔しいのか、せいせいしたのか、
その両方なのか、
目に涙をいっぱい貯めて
コクコクとうなづきながら話しました。
ふたりのお子さんは先妻のお子さんです。


今朝、お参りに行くと
仏間にあったベッドは南側の部屋に移動してあり、
「向こうは明るいからね」と
奥さんは言いました。


ひとりの人の死をめぐる
悲しみと諍いと
決別とたくましさと。


片付いた部屋の一角に積み重ねた座布団に
「こんなところでごめんね」と言いながら、
小さな体を預けて座り、
足を小さくぶらぶらさせながら、
お姉さんの家にしばらく行くのだ、
そこに妹も来るのだ、と語る
Yさんの奥さんは、
「わたしは、ほんとはイヤなんよ」と
かつて笑っていた猫といっしょに
「後妻」という立場も捨てたのかもしれません。


猫を手放し、
金魚も死んだ、という
どこか容赦のない言葉に
積年のあらゆる我慢をゴミ箱に捨て、
新しい人生を手に入れようとする
本能的ともいえる決断力と行動力を見た思いがしました。


かすかに、でも、はっきりと
「違う人」になったYさんのおかあさん。
どの家庭も、どの人の心も
決して平たくないのです。


Yさんのおとうさんは、
入院中、心筋梗塞で亡くなったそうです。
84歳。写真が好きで料理が好き。
晩年は、エプロンが似合っていました。






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50代あたりで「敬語の使用癖」を仕切りなおしてはどうだろうか。


敬語の使い方には、
人それぞれ、ビミョーに異なるルールがあるようです。


「年上には敬語」、「年下には平常語(タメ口)」という年齢序列型
「(自分より)地位の高い人には敬語」「低い人にはタメ口」という地位序列型
「お店などサービスを提供してくれる人全般にタメ口」というお客様は神様型
現実的には、これらの時と場合に応じた混合型。


あたりまえのことですが
年齢序列型の敬語を使っていると
年をとればとるほど、年上の人は減っていくので
「敬語を使う相手」も次第次第に減っていきます。


言葉づかい的には、
ほぼ全員にタメ口で構わぬ。
家のなかはもちろん、
街中どこでも年下ばかり。
コンビ二でスーパーでタクシーで
タメ口でよし状態。


ところがここで、
ある問題が生まれ
ジワジワと大きくなっていくわけですね。


それは、言葉づかいの上では、
ほぼ全員にタメ口でイケる強者になれるものの
からだのほうが、
日を追って弱者になっていくという問題です。


そのまま放置しておくと、
「偉そうに怒鳴りつけながら介護される」なんて
ことにもなりかねません。


若い間は、生意気と思われないように
年長者や目上の人には敬語を使う、という
シンプルなやり方でいいのですが、
自分が「年長者」になったとき、
さて、敬語をどうするか。


どこかで、
そう、わたしぐらいの年齢(50代)で、
年齢にも、地位にも、客か否かにも関係のない
敬語の使い方を習得した方がいいんじゃなかろうか。
敬語使用癖の仕切り直し、です。



年齢も地位も立場もすべてとっぱらって
家族と友だち以外には敬語。
友だちなら、年齢に関係なくタメ語。



なんかどうでしょうね。


年上の人でも友だちになったら、
もしくは、なりたいと思ったら、
少しずつタメ口に変えていって
お互いが「年齢を忘れていられる関係」になる。


実は、昨年末から飼い始めた子犬を人馴れさせるために
ここしばらく、公園で出会った人たちに
「おやつをあげてください活動」をしていたんです。


「今、トレーニング中だから
おやつあげてもらっていいですか?」と丁寧に頼んだら、
小学校低学年の子どもたちがちょっとびっくりしてコクンとうなづき、
ニヤニヤソワソワしつつも
神妙かつ使命感を帯びたかしこまった表情になり、
静かにやさしくおやつを与えてくれました。
だれひとり、犬をむやみに触ることもなく。
そして、「トレーニング中なんやあ!」と言いながら
一仕事終えた風の
ちょっと頼もしい感じになるんです。


これからは、幼い人たちにも敬語で接しようか。


そんなことを思いました。
中学生などは
敬語でお願いするだけで、
一瞬、拍子抜けしたような顔になり、
表情が丸くなって大人びるようにも感じました。


どれだけ強がっても
老いることは、弱くなること。


自分より弱い存在を敬うことは、
弱くなっていく自分自身を受け入れ、
その将来にも敬意を払うことではないか。
そんなことを思うきっかけにもなりました。





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「つきあいの悪さ」や「不義理」に表れる、それぞれの得手・不得手。


わたしの友だちに
「いったんやってくるとなかなか帰らない人」がいました。
「さ、帰るか」と言いながら、
グズグズして立ち上がらず
放っておいたら3日ぐらい余裕で泊まっていました。


いまは、遠くに引っ越したので
あまり会うこともないですが、
当時は、ユウウツなときもありました。
楽しい人だから会いたい。
でも、長居されるのはつらい。


あるとき、故・島森路子氏のインタビュー集を読んだら
ビートたけし氏が、こんなことを語っていたんです。


いまでもいますね。帰れないタイプ。
大人になっても飲み屋のはしご酒が始まっちゃったときに
ここで切り上げようってスパッと帰っちゃう人と
どうしても帰れないタイプ。
おいら、どうしても帰れない。

(中略)

歳とってきて、ある程度スパッと切れるようになったし、
切れないヤツの性格もわかるし、
あれ、逆だったら、もし、子どものときからスパッと切れるヤツだったら
大人になってもグズグズしてるヤツの感じ、
わかんないと思うしね。
グズグズから始めてれば、そっちもわかる。


さらに続けて、
「スパっといけるヤツは、本当にいい家の子どもだ」と語っています。


そうか、彼女は、「帰らない」のではなくて
「帰れない」んだ。



わたしの家に来て楽しむのは得意だけど、
切りあげて帰るのは不得手だったのだとわかりました。


こんな感じで「帰る」いうことにも
得手不得手があるように
人づきあいには、
さまざまな人の
さまざまな得手不得手がからみあっています。


思いつくだけでも、


(1)「明日、行かない?」という急な誘いに応えるのが得意な人、苦手な人
(2)「半年後に旅行に行こう」という少し遠めの約束が得意な人、苦手な人
(3)家に招くのが得意な人、苦手な人
(4)他人の家を訪ねるのは得意な人、苦手な人
(5)お礼の言葉を適切な時期に言うのが得意な人、言い忘れる人
(6)1対1で会うのが得意な人、苦手な人
(7)3人以上で会うのが得意な人、苦手な人
(8)「ついでにあそこにも行こう」と急な予定変更が得意な人、苦手な人
(9)さっと切り上げて帰れる人、帰れない人
(10)他人の家に泊まれる人、泊まりたくない人


などなど。


姉妹でも似ていなくて、
姉は「急な誘いに応えるのが得意」で
「自分の家に招くのは苦手」。
わたしは、どちらかといえばですが
「急な誘いに応えるのは苦手」で
「自分の家に招くのは得意」というか
ほとんど苦になりません。



思いついたときに気軽に声をかける人にとって
毎回、「うーん」と躊躇する人は
つきあいが悪くて不義理に見えるかもしれないし、
お礼の言葉を言うのを決して忘れない人には、
ついつい忘れてしまう人は
礼儀知らずだったり、恩知らずに見えてしまう。


人によっては
電話やメールなど「言葉」だけのやりとりはいいけれど、
そこに「場所」や「時間」や「食べ物」など複雑な要素が入ってくる、
つまり「会う」となると、
とたんに億劫がる人もいます。


屈託なく気楽につきあえるのは最高に幸せだけど、
不義理に見えたり、
つきあいが悪く見えるとき、
そこには、実は、その人の「不得手」「苦手」が
潜んでいるのかもしれません。



相手のつきあいの悪さや不義理に
プンスカしそうになったら、
そんなふうに考えてみるのもいいなーと思います。
大人になったねえー。





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二度めだからこそ味わえる、「失ったもの」との濃密な対話。


たとえば、再婚した人は、
ふとした瞬間に、
かつての妻や夫を思い出すのかな。


現在の妻や夫との幸せな瞬間に、
「ああ。あのとき、こうしていればよかった!」とか
「ああ。あの人に悪いことをした!」とか思うのかなあ。


もちろん、別れ方も関係するだろうし、
離別と死別でも違うだろうし、
人それぞれだと思うけれど、
でも、ふと、思うことがあるんじゃないかな。
だけど思ったにしても、今のパートナーが大事だから、
大っぴらには口にしないのかもしれないな。
それでいいし、それがいいんだと思います。


でも、二度めだからこそ、味わえることがあるだろうな。


二度めだから、
ほろ苦さや一抹の後悔とともに
かつての日々に思いを寄せ、
今の幸せを思う。


なんでこんなことを言うかというと
いきなり犬の話になって恐縮ですが、
スー(いまの犬)と暮らしはじめて
パロン(前の犬)のことを頻繁に思いだすからです。


4年前に亡くなったパロンは、
子どもが3歳のときに公園で拾ってきたから
人間の子どもと犬の子どもをいっしょに力任せに育てた感じで
何がなんだか夢中のまま過ぎました。


いま思うと、
スーに比べたら
散歩時間が短かった!
おもちゃは少なかった!
留守番は多かった!


ごめんよーー!パロンーーー!


と思うと同時に、
「あのな、スーのこと、聞いて。
いたずらがすごくてな」と
落ち着いた老犬時代のパロンに
じっくりと話を聞いてほしいような、
相談に乗ってほしいような気もします。


不思議なことに
スーのリードを握っていると
パロンのリードをもっていた感覚が
ふと甦ってくるときもあるんです。


たまに散歩中に、
パロンを知っている人から声をかけられ、
お互いの「今は亡き犬」について
思い出話に花を咲かせることもあります。


二度めの体験が、パロンを生き生きと蘇らせてくれるという驚き。



人は、だれも大小の「二度め」「三度め」を経験していて、
大っぴらには口に出さないものの、
ふとした瞬間に失った人や物事の記憶が甦り、
心のなかでだけ静かに、でも濃密に
その失った存在と会話をしているのかもしれない、と思いました。


スーは、「二度め」であると同時に
「最後」だと思っているので
その「幼い表情」や「幼さゆえの行動」が
尊く、かけがえなく感じられます。
それも、二度めゆえ。
犬の命が短く、
あらゆることが瞬く間に失われることを知っているからです。


回を重ねることや
一度、失敗してやり直すことが、
過去を新鮮によみがえらせることもある。
それって供養なのかもね。





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大切な人であればあるほど、約束の内容は小さく手堅く。


「あなたのことは任せて」とか
「君の面倒は見る」とか、
「それは心配しないでいい。なんとかする」とか、
その言葉を聞くだけで、全身が心地よい安心感に包まれるような、
それまでの不安が嘘のように消えてしまうような、
なんだか、ほっとして、
この先の人生は安泰なような、
もう、この勢いでパーっと焼肉でも食べに行きたいような
そんな気分になってしまう言葉の数々。


ま、ここまで大仰でないにしても
その応用版や縮小版のような言葉を
(「その仕事がダメだったら、探してあげる!」など)
聞いたことがあるような気がしますが
その言葉どおりになったという記憶はほとんどありません。


よくよく考えてみると、あたりまえなんですよね。


こういった「全面的に任せてくれ」系の言葉は、


(1)期待を背負うというカタチをとりつつ、事の解決を先延ばししたい
(2)相手の期待にとにかく応えたい、今、喜ばせたい
(3)高揚感や一体感から、つい言ってしまった


ときに出る言葉なので
そもそも、その言葉が根を張る「地盤が弱い」んですね。
ユルユルなのです。


こういう言葉を多めに使ってしまうタイプは、
気のいい人だったり、
優しかったり、
親分肌だったり、
親分肌をきどったりしますが、
「場の雰囲気に流される」という共通点があり、
その意味で弱い。
言葉の根っこにある地盤が弱いのです。


でもねえ。
頻繁には使わないにしても
「あなたのことは任せて」と言ってほしいのだろうなあ、
「大丈夫、わたしもやるよ」と言ってほしいのだろうなあ、
という期待を感じたとき、
そのプレッシャーに負けずに
沈黙を貫いて
安請け合いをしないというのも、
これ、なかなかに難しいのです。


だって、だれにでもサービス精神ってあるからねえ。


それが親友の頼みだったりすると余計に難しい。
つい「任せて」って言っちゃう。
「なんでもするよ」って言っちゃう。


が。


言わないでおきたいな。
そこは言わないで、
ぐっとこらえて、
その後の具体的な行動で示したいな。


大切な人であればあるほど
約束の内容を小さくしておきたい。


地盤がゆるゆるの言葉は、
威勢がよくなりがちだから、
期待を高めて、
失望も招く。


口にした途端に、プレッシャーになることもある。
言葉どおりに頼られると
重荷になったりもする。


できることを言う。
できることをやる。
それを積み重ねる。
「できること」の地盤だけが固い。
足をとられず、ゆっくり歩いて行ける。
まわりに広がる風景も楽しめますな。





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憧れや尊敬を前提にふるまうと、人間は滑稽なことになる。


若手芸人さんが
お金持ちのマダムを訪ねる番組を見ました。


お化粧が上手で
おしゃれなお金持ちのマダムは、
若手芸人さんのお願いに快く答えながら
ピンと張らせた細い指先を
空中に弧を描くように動かすという、
細部まで手入れの行き届いた女性にしばしばみられる仕草で
上機嫌に案内していました。


スタジオに戻ると
出演者が一斉に「気さくな人ですねえ!」と言っていました。


「気さく」とは、
「人柄や態度がさっぱりして明るく、庶民的」というような意味ですが、
気さくであることが当たり前の人、
たとえば、商店街の八百屋のおじちゃんなどに
「気さくな人だ!」とはあまり言わないので、


いばっていたり、
気取っていてもおかしくない立場の人が
意外にもさっぱりして明るく庶民的だった場合に
「気さくな人だ!」と評することが多いです。


このお金持ちのマダムも、
まだあまり売れていない若手芸人に
さっぱりと明るく親切に接していました。


大仰に称えられるモノや車やファッションに関して
「いえいえ」と謙遜したり、
ためらうようにブランド名を口にしたりしながら、
指先で空中に弧を描き、
髪に手をやりながら、
まぶたをゆっくりめに閉じたり、開いたりしています。


しかし、まあ、男女を問わず、
「気さく」「鷹揚」「庶民的」など
自らの立場と真逆の対応をすることによって
そのチカラを結果的に補強し、誇示するという
トリッキーでややこしい表現方法を
人は、いつ、どの段階で身に着けるのでしょう。



謙遜とは、非常にややこしいもので、
「相手が自分を評価している」という前提があって
はじめて成立するものです。
そして、それは、しばしば自分だけの思い込みだったり、
相手の意図的な「よいしょ」や「ゴマすり」のおかげだったりします。


他人の自分に対する憧れや敬意を前提として発動される
「気さくさ」や「謙遜」は、
その前提が存在しなければ、
滑稽な一人芝居になってしまう。



もちろん、セレブを訪ねるという番組そのものが
「おだてに乗せる」ものだから、
仕方ないのですけど


謙遜するほどすごくない。
気さくを意識するほど偉くない。



そう思っておいた方がいいと思うなあ。
過度な謙遜や意図的な気さくさほど
プライドの高さを想像させるものはありません。


「鼻持ちならない」って、
強固な選民意識と
偽装された気さくが
化学反応を起こしたときに
立ち現れる匂いだと思いました。


それは「おだて慣れ」した人から見ると
「ちょろい」ともいえる危うくて隙だらけの態度でもある。
マダム、ご用心。





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遠のく「悠々自適」。働きつづける未来へ、50代という転換期。


仕事をお願いできる人を探して
フリーランスの知り合いに久しぶりに連絡をとったら
「正社員として働きはじめている」
「まったく違う仕事に就いた」と
何人かに言われました。


ある人は、
「夫の定年退職まで1年を切りました。
子どもの学費もあり、
わたしもなんとかしなくちゃと考えています」
とメールに書いてありました。


わたしたち夫婦は、ふたりとも自営業なので
不安定なりに今日明日に大きな変化はありませんが、



50代というのは、そういう年代なんだ。
もう一度、転職を考える年代なんだ。



と改めて知らされた思いがしました。


わたしも、いつまで仕事を続けるのだろう。


その答えもビジョンもあいまいです。
わかっているのは、
やめるのは今じゃない、ということだけ。


じゃあ、いつ?
いつならやめて、
「悠々自適」になれる?


もちろんその目途は立っていません。


悠々自適だけが老後ではないことぐらいはわかっているけれど、
悠々自適じゃなくても
わたしにとっての老後っていつからだろう?


ずいぶんと曖昧で
ズルズルと延期されつづけるような気がします。


先日、中央ヨーロッパに旅行に行った姉は、
ツアーで出会った70代や80代の夫婦が
とても裕福だったと言っていました。


ああ。そこにあるのは老後だなあ。
悠々自適がそこにある。


「ずっと現役でいい」という考えもあるかもしれませんが、
地位のある高齢男性たちの記者会見などを見ていると
「老害」のカタチを見るような思いがして複雑です。


自らの老いを自覚すること。
若者にその場所を譲ること。
自分にできる貢献をすること。


きっと、どこにいても、どの立場でも
その意識は大切であるけれど、
わたしたちも、生き抜かねばならない。
どこかに居座ってでも。


これからの時代は、
少なくとも70歳までは働かなければ生きていけないし、
それが求められるようにもなるでしょう。


そうすると50代は、
その後の、少なくとも
70歳までの人生を選択する転換期。



ここでの仕切り直しと選択、大切ですよ。間違いなく。
リタイアの時期を決めて新しい人生の準備をするにしても、
仕事を変えるにしても
いまの場所に居座るにしても。
心のなかの仕切り直しと選びなおし、
しておいたほうがいいと思う。




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