これでいいのか?人生で大事なものがどんどん少なくなっていく。



去年の暮れにうちにやってきた犬のスーが、
7か月を迎え、体重は15キロとなりました。


うちにやってきた当初は、
「ジャックラッセル?」と言われるほどの
キュートなルックスでしたが、
順調に雑種感を高め、
「白毛にブチの、ややデカめの犬」へと
成長を遂げました。


見た目がかわいいか、といわれれば、
まあ、普通。
秀麗かといれれば、
やや、疑問。
そんなところの犬です。


夕方はできるだけ大きな公園に散歩に行きます。


20分ぐらいかけて行き、
30分ほど公園で遊んで
また20分ほどかけて帰ってくるコース。


その公園で過ごす時間が至福です。
「もう、なんもいらないな」と思います。



ほとんどだれもおらず、
夕陽が陰影をつくる公園につくと
ロングリードにつけかえて
木立のなかを、
わたしと犬は落ち葉をワシワシと踏みながら進みます。


スーは、倒木の根っこに鼻をもぐらせて
前足で一心に掘ったり、
乾燥したミミズに背中を擦りつけて
仰向けになったままウッヒョーと脚をバタバタさせたり、
木に止まる小鳥を見つめたり、追いかけたり、
長い枯れ枝をくわえて後生大事に運び、
ここぞという場所で
人間が弁当の包みを開くような面もちで
ガジガジと噛んだりします。


その間、リードを持つこと以外、
何もすることのないわたしは、
人間から見たら不潔で、まずそうで、つまらなさそうなことに
くそ真面目に取り組む犬の表情を飽きることなく見ながら
自らの衛生観念と葛藤しつつも、
なんとか折り合いをつけたり、
遠くのグラウンドで走るサッカー少年を眺めたり、
ただ単にボーっとしたりして、
犬が満足して立ち上がるまで待っています。


子犬らしくあれ。


と思います。


きっとこの時間、
わたしは、日常の細かい規範から自由になって
少しだけ自然に近づいているんでしょうね。


頭の中はからっぽで
仕事のことも
将来のことも
なんにも考えていません。
スーの機敏な動きに
すげえなと感心するばかりです。
(やばいものを拾い食いしないか、
地面の観察にも気が抜けません)


倒木、枯れ枝、枯草、
そろそろ鬱蒼と茂りはじめた草花に
羽虫、アリ、ハチ。
泥混じりの水たまり、
カラスにスズメ、ハト、
ときに鳥の死がいと散乱する羽根。
動物たちの糞、人間の落としたゴミ。


いのちあるものと
いのちを終えたものや用済みになったものが、
地面には、ごちゃごちゃに
混じりあい、重なりあっています。
今の時代も、土の上には、
「生」と「死」がてんこ盛りあるのですね。


犬を通じてこんなふうに地面に親しむって
いずれ自分も土に還る準備かな(笑)


欲しいもの、大事なものが
どんどん少なくなって
こんなことでいいんだろうかと思う、というのはうそ。
これでいい、と思っています。





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「捨て時を失すると、崩壊するまで捨てられなくなる」の法則。


ほとんど服を買わず、
下着は擦り切れて破れるまで着るという友だちは、


「風呂だけが困んねんな」


と言っていました。


穴があくまで着る下着(というかTシャツ)は、
柔らかく体になじんで
本人的にはまったく問題ないんだけども
スーパー銭湯などで脱いだときに
同行した友だちやまわりの人にギョッとされる、と。


確かに、「売れないまま老いてしまったパンクロッカー」に見えなくもない
破れたシャツ姿の小太りおばさんは、
人生のどこかで迷子になったような哀感と
友だちになっても「自分を高めてくれないだろう感」が半端ないので
向上心のある賢明な人は近づかないでしょう。


それに、本人「まったく問題ない」と豪語するわりには、
破れた穴に腕を通しそうになり、やり直したりしています。
風呂の脱衣場で繰り返される
2歳児の着替えのような試行錯誤。
なんともいえぬ、「人生の行き当たりばったり感」です。


でも、わたしには、わかります。その流れ。
その抜き差しならぬ「破れ下着との腐れ縁」。


それは、法則なのです。


「捨て時を失すると捨てにくくなる」の法則、です。




わたしは、先日、初めて会う人と打ち合わせをするために
もろもろ早めに資料を準備して、
さあ、化粧でもして出かけるかあ!となったとき気づきました。
化粧ポーチがない!


どこを探してもない。
わたしは、ほぼすべての化粧品を
そのポーチに入れているのです。


ファンデーションだけはあったので、
あわてて塗り、
娘が途中まで使って放っておいた眉墨で眉毛を書き、
気に入らずにこれも放っておいた口紅を塗り、
いくらあまり気にしないわたしでも
思い残すこと山盛りの状態で家を出ました。


どこに忘れたのか、
まったく覚えがありません。


前日、最寄の駅でトイレには寄ったけれど
化粧直しなどしていません。
でも、まあ、念のため、聞いてみるか…と
改札に尋ねたら、忘れ物センターに問い合わせてくれとのこと。


一度、電話しようとして
「でも、ないよなあ」と思い、
あきらめようとして再び、思い直して電話してみると
ものすごく丁寧で感じのいい美しい声の若い女性が、


「お客様の化粧ポーチは、どのようなものですか
布ですか。」


と聞いてきました。


「いえ。革です。あ、でも革ですが、
ボロボロです」



そうなんです!


自分の化粧ポーチがボロボロなことを
いつかどこかに書いたなあと思ったら、
ここに書いていました。
2015年!もう3年経ってる!


類は友を呼ぶ。


「捨て時を失すると捨てにくくなる」の法則、
ここにあり。



忘れものセンターに行くと、
キャビンアテンダント風のまとめ髪とスカーフの
若く麗しい美女が、
そのボロボロの化粧ポーチをおしいだだいて、
しずしずと現れて尋ねます。
「お客様のお忘れ物は、こちらですか」


はい!こちらです。


「中身をお確かめください」の言葉に
しぶしぶファスナーを開けると、
そこには、燦然と輝く
井田ラボラトリーズのCANMAKEシリーズ
フィニッシュパウダー940円

わたしって何から何までほんとに素敵!


話は、戻りますが、
パンクロッカー風下着の彼女は、
いつになくキレイにカットされたボブスタイルに
小ぎれいな服装であらわれたことがありました。


「今日は、なんか、いいねー」と言うと、
彼女が一目置いている友だち
(美術館でキュレーターをしている才女)に
久しぶりに会ったら、
「ちゃんとおしゃれしたほうがいい」と
いつになく真剣な表情で諭されたそうなのです。
その一言に、
「あ。わたし、かなりやばいんやとわかった」
と言っていました。


破れた下着を捨てたかどうかは聞いていません。
捨ててないと思うな(笑)。




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他人が見なくても、自分は見よう。「顔」という空き地の状態。


自分の顔を鏡に映すなり、
写真に撮ってみるなり、
ということは、やはり大事です。


美しさのために、という以前に


自分が自分の顔の状態を把握しておくために。




顔は、「目鼻口という凹凸ある空き地」ですからね。
ときに乾燥してひび割れ、
ときに水や化粧水の雨が降り、
ムダ毛という名の雑草だって生える。
鼻という穴の中にだって生える。
整っているべき眉毛という植栽も乱れる。


先日、渦中にある大学の偉い人が会見していましたが、
失礼ながらわたしは、お話の中身よりも
その頬で時折光る、長く白いそり残しの一本が気になって仕方がありませんでした。


テレビ慣れしていないこその油断、
可愛らしい素人っぽさともいえるでしょうが、
「あまり鏡を見ないのではなかろうか」と思ったのです。
普段、鏡を見る習慣がないから、
人前に出るという一世一代の大舞台の前でも
つい、「一本の伸びた雑草」を見逃してしまうのではなかろうか。


老眼も追い打ちをかけたでしょうね。


裸眼で髭剃りをする。
その手は、長年の習慣で
いつものルートを、
いつものやり方で刈り取っていく。
最後に表面をざっと触ってOK.。
細かくなんて見ません。
目視チェック、ほぼなし。
そんな感じじゃないでしょうかね。


女性だって年齢とともに
鏡を見る回数と時間は減るものです。


わたしなんて家にいるときは、
朝、鏡を見て化粧水を塗って
髪の毛はまとめるけれど
そのとき、顔をちゃんと見ているかと言うと
はなはだ疑問。


見ているようで見ていません。
見ても別段、楽しくないしね~。
「老い」の確認、気が進まないしね~。
「空地」の植栽や雑草の状態を
しっかりとチェックしているかといわれると
それも、まったく自信なし。


しかし、わたしは、
ご高齢の方々を見ておもうのです。


自分が自分の顔に興味を失うと、
顔も何かを放棄すると。



その最大のものは、愛嬌じゃなかろうか。


やっぱり、顔は見られてなんぼ。


他人が見なくても
自分は見る。
鏡で見る。
写真に撮って見る。


「草刈り」を「ガーデニング」に変えるのは、
愛でるまなざしなのです。





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親孝行は、使命感による「愛情の演技」でもある。自分もそうだった。


大学を休学して
アイルランドに語学留学した娘は、
最初こそ、LINEで写真を送ってきたり、
電話してきたりしていましたが、
日増しに連絡は「疎」になってきました。


ま。何か、いろいろと
うつつを抜かしているのでしょう。


「うつつを抜かす」(あることに心を奪われる)ことと
「親を思い出す」ことの両立は難しいです。
相性が悪い、ともいえる。


恋愛しかり、
エッチしかり。
それ以外の「夢中になるあらゆる物事」しかり。


「親に連絡する」が一拍入ると、
うつつを抜かせません。
羽目もはずせません。
没入も、没頭もできません。
その経験を全身で引き受けることができません。


若いころの自分がそうだったから、
わたしからも、あまり連絡せず放っています。
わたしも、スー(犬・7か月)の世話で忙しいしね。


とはいえ、ソニー銀行の世界中で使える
キャッシュカードとデビッドカードが一体化した
Sony Bank WALLETの口座にログインして
残高は確かめています。
一種の生存確認ですな。


「巣立つ」とは、
「忘れる」ことであり、
「必要としなくなる」こと。



成人後の親孝行は、
ある程度、意図的に努力して行われる「感謝と愛情の演技」よね。
それをするだけで偉いけれど、
儀礼的な演技であることを
親のほうも気づいているんだなあ。
たぶん。


老いることは、
忘れられることであり、
必要とされなくなるということ。


それを、「寂寥」ととることもできるし、
ようやく手に入れた「自由」ととることもできる。
両方とも否定せず味わいながら、
飄々とやっていけたらいいですなあ。





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「なんとなく不自由」の重なりが、重荷になる。


「手間をかけなくていいよ!」と言ってあげるから
相手が自由になる、楽になる、とも限りません。


たとえば、果物はなんでも
飾り切りしなければ気がすまないお嫁さんがいるとして
お姑さんとキッチンに立つたびに、
「そんなことはしなくていいの!
果物は丸のまま、ゴロリと出せばいいの!
みかんやりんごは当然!
パイナップルだってそう!
スイカだってそう!」なんて言われたら
ものすごくストレスでしょう。
飾り切りしたいんだもん。好きなんだもん。飾り切りが。


さすがにどんな果物も丸のまま出す主義のお姑さんはいないでしょうが、
「まあ。どうせ、汚れてシミになるのに
テーブルクロスやランチョンマットを使うの?
洗濯物が増えるだけなのに??」ぐらいなら言っちゃうお姑さんはいると思うな。
そんなお姑さんと同居しながら、
お嫁さんのほうが、
あの西洋風のクロスにクロスを重ね、
皿に皿を重ねるテーブルコーディネートの夢を
我慢しつづるのは、つらいものです。



「やらなくていいよ」が
面倒な作業からの解放でなく、
夢の抑圧になっちゃう。




人間関係が重荷になるのは、
ほとんどの場合、「なんとなく不自由」を感じるからです。



誘いを断れない、という軽いプレッシャー。
面倒をみて当然、という暗黙の約束、
ここではこのやり方、という変更不可のルール。
あなたはこういう人、というキャラの固定化。


こういうことのひとつひとつが
小さくても重なっていくと、
「不自由」を感じることが増え、
人間関係は、重荷になる。


真夏の日盛りに
「さあ。スイカを食べよう!」となったとき、
丸のままゴロリと出して
「切るなり、割るなり、壁にぶつけるなりして食べな」というお姑さんも
毎度毎度、スイカがぬるくなるまで時間をかけて
華麗なバラを飾り切る(カービングっていうんですね)お嫁さんも
どっちも、どうにかしたほうがいいと思うけど(笑)
どっちも好きにしていられるのが一番。


多文化共生って
「自分にとってムダにしか見えないことを
他人がやることを邪魔しない」って
ことだと思う。


そこに上下関係がからむと
もう、パワハラだもんね。





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「怖かったけどね」と控えめに語ってしまう、私たちの地震体験。


一昨日の地震で家の中は大変なことになりましたが、
余震も少しずつおさまっているように感じます。


高槻などライフラインの止まっている地域のみなさんは、
不安と不自由とで大変なご苦労をされていると思います。
雨も降っています。
給水車への行き帰り、
傘を片手に通うのはたとえ車であっても
疲れた体にはきついです。
雨め。腹立つ。


地震のあと、近所の人や友だちと話すと
どこか「怖かったけど、ま、仕方ないよね」
「家のなか、めちゃめちゃになったけどね(笑)」という
控えめなニュアンスを感じます。


阪神大震災のときに
震度5程度を経験したというのもあるかもしれませんが、
「阪神淡路大震災の神戸や東日本大震災、
熊本地震なんかと比べるとこの程度で騒ぎ立てるのはね」
という感覚があるとでもいいましょうか。


その感覚は、わたしのなかにもあって
「まあ。この程度の壊れ方は仕方ないか」
「この程度の余震で怖いんだから、
あの地震のときはさぞ…」と
過去の見聞きした未曾有の被害に思いをはせ、
ごく自然に謙虚になるのです。


それだけ、わたしたちは、
多くの地震が招いた悲劇を知り、
その体験を内面化しているんだなあと思いました。


この場面、あの場面
この行動、あの行動に
既視感と既知感。



ブロック塀の下敷きになって亡くなった
9歳の女の子の死だけが
どうしても受け入れがたく、
誰かと会うたびにその話題になってしまいます。


地震のあった夕刻、
犬を連れていつもの公園に散歩に行くと
休校で時間の空いた少年たちが、
サッカーをしていました。


若者特有のしなる躰。
笑いながら大きく後ろにのけぞったかと思うと
瞬時に戻るバネそのもののような上体。
声変わりの時期から、そう遠くない
おさまりの悪いハスキーボイス。
サッカー流の少しかっこつけた髪の毛をブルルンと振る仕草。


ああ、この場面、忘れないだろうなあ。
いま、ここに来たから、
この若者たちの姿を見られたなあと思いました。


何ごともなかったかのように走り興じる若者に
なんともいえない美しさと救いを感じたのは、
自分が思うよりは怯えていた、
ショックを受けていたからかもしれません。


大阪の人たちの恐怖が早く癒えますように。
気づいていないそれも含めて。
そのなかのひとりである私自身のも。


この文章を書き終えたとき、
日本代表がコロンビアを破りました!
今度はプロの人たちが与えてくれる喜びだ!イエイ!





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ショックや悲しみは 「相手思い」と「自分本位」を繰り返す不定形。


地震についてLINEで「大丈夫か」と尋ねてくれた幼なじみKちゃん
「大丈夫!それはそうとカラダは大丈夫?」と返したら
その後、返事がないので
もしや、体調が悪くないかと心配になりました。
もともとあまり調子がよくなかったからです。


案の定、大きな病院で検査をして
即刻入院を進められるほどで
「重篤な状態ですよ」と言われたのだとか。


わたしは、今年に入って生後2か月の犬を迎えたことで
生活が激変し、なにが大変って
「仕事と暮らしをスケジュールどおりに回していく」ことが
ほんとに大変でした。


そんなこんなで3月いっぱいまでは
心身ともにまったく余裕なし。
4月以降もなかなかバタバタとして
幼なじみに連絡していなかったのです。


Kちゃんに聞いた症状を
ネットで検索すると
すぐにどう、ということはなくても
なかなかに難しい様子で
入院中の検査次第では
別の重大な病も見つかる可能性があるとのこと。


仕事帰りにその長文の返事を見て
地震以上に動揺しました。


やばい、やばい、やばい。


小学校3年から今まで
およそ半世紀におよぶ、
あの場面、この場面。
いっしょに暮らしたあの場面、この場面。
あの表情、この表情。
あの声、あの言葉…
ありとあらゆる場面が浮かんで
乗り物のなかで泣けてきます。


あああ。1度も嫌なこと言われてない!
一度も否定されたことがない!
あああああ。やばい、どうしよう!!
臨終の場面にかけつけて呆然自失する自分まで想像して
悲しみと絶望は頂点にいたり、
その後、落ち着きました。嘘のように。


翌日、電話すると
Kちゃんは別の病院に検査に行っていて
「いま、ちょっと。ごめん」と言いました。
何ごとかに一人で立ち向かう冷静で落ち着いた声です。


その翌日、(つまり昨日)電話すると家にいて
泣き言&グチ満載のいつものKちゃんでした。
でも、「いつもの泣き言とグチ」なことがすごい。
冷静で悲劇的にならず、
通常運転なのがすごいと思いました。


最初の劇的なまでの悲しみや盛り上がりは
ちょっと恥ずかしいような
あまりに情緒的なような気がするけど、
それもショックのひとつの形だったんでしょう。


それから、症状をネットで調べたり、
自分のカラダも心配になったり、
「相手思い」と「自分本位」を繰り返しながら
Kちゃんのことは頭から離れません。


ショックや悲しみは
強弱のある、不定形なものなの。
「相手思い」と「自分本位」を繰り返す。



そういうものなのかも。


その揺らぎのなかに身を置くことが
「ショックのなかにいる」ことの証かもしれません。


みなさんも、お体ご自愛ください。
そして、やっぱり、声をかけることは大切ですね。




 ~介護に関するイベントを開きます~

ウェブマガジン「どうする?Over40」で連載中の
「介護の言葉」に詳細がありますが、
7月に介護について語り合い、楽になり、風が通るような
おいしいもの付きのイベントを開くことになりました。

もちろん、わたしも登場します!
介護中の方はもちろん、興味のある方、ぜひご参加ください。
いろいろおしゃべりしましょう。
詳細は、7月頭にお知らせします!
介護の言葉、今回は、介護する人を救ってくれる情報ってほとんどないことについて。
ぜひお読みください。

  
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ウェブマガジン「どうする?Over40」、ほぼ毎日更新しています。おしゃれ会議室は、美容院問題ですよー。~美容室を変えた理由~

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家族も交渉相手。 いや、家族こそ交渉相手と肝に銘じる。


まだ余震が多かったとき、
グラっときた瞬間に、
「震度3だね」と言うと
夫が「ちゃうちゃう!震度4」と
自信たっぷり、キッパリと断言しました。
別にどっちでもいいんですが、
あまりにも「自分が正しい」オーラが出ていたので
「そうかな。わたしは、この揺れは、震度3だと思う」と
重ねて言いました。


夫婦間の結論が「震度3」にならなくてもよいのです。
わたしが、このとき、震度3だと判断し、
発言しておいたという事実を、
明確にしておきたい。
のちに、どちらが正しかったかを
検証可能にするために。


余震は、震度3でした。


夫は、ひとの意見をよく聞く人ですが、
それでも、やっぱりマンスプレイニングの傾向が
ないわけではありません。
(マンスプレイニングとは、
男性が女性につい偉そうに何かを解説してしまうこと
上記のリンクに詳しい解説があります)
その「自分のほうが知っている」という口調を前に
わたしのなかの男尊女子が、
「そうかな」とか、つい、言っちゃうんですよ。


しかし!


夫婦生活が長くなるにつれ、
「こういう場合の判断は、多くの場合、わたしが正しい」
「あのときの判断はわたしが正しかった」というデータが
かなりの数、集まってきました。


家族の危機管理としても、
自分自身の危機管理としても
「この場合は、わたしの意見が正しいと考える」と
しっかりと冷静に、粘り強く伝える習慣を
わたし自身が身につける必要があると
次第に思うようになったのです。
それを習慣づけないと
人生は「不本意」なほうへ
少しずつ、しかし確実に転がっていくのではないか。


たとえば、わたしの友だち。
庭の広い古民家に引っ越しましたが、
片づけも草むしりもなかなかはかどらず、
「もう、この年になったら
メンテの大変な家は無理って言ったのに
パパが言うことを聞かないから
こんなことになった!」と
常々こぼしています。


そういえば、うちの母も
「お父さんは、言うことを聞かないから」と
こぼしていたなあ。


一家の長として決断せねば、とつい思ってしまう夫と
反対意見を粘り強く主張せず、つい飲み込んで従ってしまう妻。


その構図は、若い世代にも
まだまだ残っているように感じます。


家族も交渉相手。
いや、家族こそ、交渉相手。



日経ビジネスの遙洋子氏のコラムに、
セミナー参加者のこんな発言が紹介されていました。


自分は一人暮らしだが、もう年だから娘夫婦が同居にやってくる。最初はリフォームで同居、というはずが、気が付けば家をさら地にすると言い出した。娘は『お母さんの荷物は捨てて』と言い出している。やがては自分も捨てられるのではと不安だ。私の家なのに、娘婿が取引先の不動産屋を、あれはダメ、これもダメ、と断ってしまい、とうとうある業者に絞ってしまった。



なんてことでしょう。
この女性はいったい何度、
「あれ?ちょっと待って」
「それってどういうこと?」
「それは困る」という言葉を飲み込んだのでしょう。
「年だから」という不安で自らを納得させ
「いつかお世話になるから」という負い目を意識しながら
より濃厚な「いま、目の前にある不安」の渦に飲み込まれていく。


夫のみならず、娘も、娘婿とも
丁寧で粘り強い交渉が必要なのです。
感情的に主張するのでなく、
「自分が真剣に考えている」ことを示し、
不安や迷いを言葉として
しっかりと伝える姿勢が必要です。


自分の判断、
自分の未来予測、
自分の危機感は、
その都度、その場で
疑問や異論を覚えた瞬間を逃さず
口に出さなければなりません。
家族が相手でも。
いや、家族だからこそ。


「ささいなこと」と封じてはいけない。
10の「ささい」が重なったら、
もはや動かしがたい「前提」になってしまう。



そのとき、その瞬間に主張しておかないと
どんどん「流し癖」「飲み込み癖」が定着していきます。
自分のなかに。
そして、それこそが自分自身を遠く、
不本意な「現実」に連れていくのです。


いつからはじめても遅くない。
真摯で真剣な「NO」を主張する習慣は、
お互いの未来のため。
小さなことからコツコツと続けていきたいもんです。




 ~介護に関するイベントを開きます~

ウェブマガジン「どうする?Over40」で連載中の
「介護の言葉」に詳細がありますが、
7月に介護について語り合い、楽になり、風が通るような
おいしいもの付きのイベントを開くことになりました。

もちろん、わたしも登場します!
介護中の方はもちろん、興味のある方、ぜひご参加ください。
いろいろおしゃべりしましょう。
詳細は、7月頭にお知らせします!
こちらの記事にきっかけや経緯が書いてあります。→毒を吐き出して : 介護トークミーテイングへのお誘い
  
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