ドラマになった「赤毛のアン」に見る、育む者としての大人の振舞い、


ネットフリックスのドラマ「アンという名の少女」は、
原作「赤毛のアン」の内容を大きく逸脱しながらも
「なるほど!アン!」という内容で
放映されるたびに(現在シーズン2まで)一気に見てしまいます。


シーズン1では、
劣悪な状態で子守りとして雇われていたアンが
「雇い主夫婦の性交を見て」しまう環境に置かれていたがゆえに
アヴォンリーの学校で「下品なこと」を
その意味を知らないまま、すれっからしのように語ってしまう場面!


アンのような生い立ちの子が
どのように「浮いてしまう」のかを
痛いほどリアルに見せてくれて
胸がえぐられます。


そんな生い立ちの違いから周囲に忌避されるアンを
マリラが心のそこから受容し抱きしめる場面など
原作には描かれていなかったけれど
「そうであったろう!」と思われる数々のシーンもすばらしいです。


シーズン2にも、人種差別や同性愛、多様性の受容など
現在的なテーマが、これでもかというほどぶちこまれるのですが、


たとえば、同性愛者として描かれるジョセフィンおばさん(ダイアナの大叔母)と
「自分は、同性愛なのではないか」と孤立感を深めていた
アンの友人である少年・コールが言葉をかわすパーティー。


老女と少年がそれぞれ
「自分自身の人生において本質的な苦悩」を
わかちあい、認めあい、
それぞれの存在によって励ましあう姿は、
「年齢を超えたリスペクトとは、
こういうことだ」と教えてくれます。



お互いの性的指向をみとめあった瞬間、
ジョセフィンおばさんはみずみずしく美しく
コール少年は大人っぽく頼もしく見え、
ふたりでダンスするシーンには、
セクシーにすら見えました。



年長者は、
「自分が人生において体験してきた苦悩」をよすがに
若い人のなかにある苦悩を探り当てて
静かにエールを送るべき存在なのだ。



そんなことを思いましたよ。


シーズン1の脚本はすべて
あの「ブレイキング・バッド」を手掛けたモイラ・ウォリー=ベケット。
アン・シャーリー役もまた、
「よくぞ、こんな少女を見つけた!」という14歳のカナダの女優。
「美人とはいえないが、どんなに美しい女性より
印象に残る美しさ」とはこういうものだなと心底納得できるルックスです。
(クラスメートのだれよりスレンダーというのも現代的に見える理由)


アンを世に送り出してくれたモンゴメリに敬意を払いながら、
モンゴメリが生きた時代的制約を軽々と乗り越え、
原作のアン以上にアンを生きてくれそうな「アンという名の少女」。
ずーっと先まで描いてくれることを祈る。


プリンス・エドワード島で撮影された風景の再現度もすごいですよ。
アン好きは、必見。







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