「老いる」とは、帰るべき「家」を喪失し、 心が彷徨うことか。


夫の病院があるまちが楽しいと前に書きました


多くの家が道路に面して鉢植えをぎっしりと置いているのですが
その鉢植えが、いままさに満開!
チューリップ、ビオラ、ノースポール、ムスカリ…。
園芸力は、伝染するものですね。
みんな上手!


午後4時ころ、病院を出て駅に向かって歩くとき、
まだ十分に明るいものの、
西に傾いた太陽が鉢植えにも家々の外壁にも陰影を与え、
一日が終わりに近づいていることを教えてくれます。


古くからの建物の残る路地を歩き、
少し離れたところから聞こえる人の声や
車の走る音を聞いていると、毎回、


友だちの家で遊んだあと
自分の家に帰っているような



気分になります。
そう、小学生のころの記憶がよみがえり、
一瞬、錯覚するのです。


ここは大阪で
わたしが生まれ育ったのは長崎。
まったく違う場所で、しかも、
あのころから50年近く経っているというのに。


このまま、急いで戻れば、
見慣れた家に着き、
父母が迎えてくれて、
夕餉の食卓に着く。


父母は健在で、
わたしが夫に出会うのは
まだずっと先。


そんなころの帰り道と記憶を交錯させながら、
父母は亡くなって
もう、いないこと、
このまま帰りつく家に
夫もいないことを
ぼんやりと思います。



わたしは、どこに帰っているのだろう。
わたしの「家」は、どこにあるのだろう。




夕陽に向かって問いかけるようにして歩き、
そして思うのです。
わたしは、まだ50代で
老いの入り口に立ったばかりだけれど
年をとるということは、
「家」を失うことなのかもしれないと。


晩年、認知症だった母が、
わたしの家に遊びにきたとき、
近所を歩きながら、
長崎の道を歩いているように錯覚する瞬間があったこと。
台所に立ちながら、
台所に立っていることはわかっていても
どこの台所に立っているのかが
わからなくなっていたこと。


そのときの母の感覚が
わかるような気がするのです。


認知症とは、
帰るべき「家」を喪失し、
心が彷徨う病なのではないか。



自分は、かつてと同じくここにいて
かつてのことを鮮やかに心に刻んでいるのに
「家」の実相が変ってしまう。
いるべき人が、もう、そこにはおらず、
自分の記憶のなかだけに
自分にとっての帰るべき「家」がある。


現実に帰るべき家には、
かつて与えてくれた「親しみ」はない。


しかし同時に、
病院からの帰り道、
記憶が交錯する瞬間は、
わたしだけが
わたしに与えることのできる
切なく甘美な贈り物でもある。


老いの楽しみのひとつのなのかもなあ、とも思います。




フェイスブックツイッターで更新情報をお知らせしています。フォローしたら気軽に話しかけてください♪リアルタイムにツイートしているのでライブ感あります。

ウェブマガジン「どうする?Over40」、ほぼ毎日更新しています。月曜にはこちらも書いています。よかったら、お読みください。人も犬も、幸せかと問う前に「安心できるねぐら」

★いつも応援してくださってありがとうございます!ハッピースマイル

にほんブログ村 ミセス系

関連記事

スポンサーリンク



ジジババの「アナーキー横断」を防ぐべくエレガントを意識してみる。


病院からの帰り道、
もうすぐ駅、というあたりに
「青信号になるまで長く待つ信号」があるんです。


しかも、信号と信号の間が開いているんですね。
「よし、その前にこっちの横断歩道を渡っておこうか」
ができないわけです。


ほとんどの人は、もう200メートルほど手前から
その信号が「赤なのか」「青なのか」を
気にしながら歩いてると思うな、きっと。


人生に迷いや悩みを抱えている人でも
この横断歩道にさしかかる瞬間だけは
「青か赤か」問題が心の大半を占めるんじゃないかな。


信号は、まだはるか彼方ではあるけれども
青であることが確認できれば、
いまのうちに横断歩道じゃないところを
車の隙を見て強引に渡りきってしまいたい。


あれですよね。
そもそも信号が青に変わる瞬間に
ちょうどタイミングよく横断歩道にさしかかるのは、
なかなか難しいものです。


普通の速度で何も考えずに、はい、青信号!ならラッキー。
重い荷物を抱えて小走りしなきゃならないこともあるし、
青信号が点滅しはじめて、しぶしぶ全力疾走、ということもある。
まだかまだかと青に変わるのを待つこともある。
疲れて帰るときなんか、
心身ともにビミョーに負荷がかかるわけです。信号待ちって。


だから、渡り切ってしまいたい。


その病院の帰り道にある「ながーい信号」では、
青になったと見るや、
老いも若きも男も女も自転車も
横断歩道じゃないところを
すきを見つけてわらわらと渡ります。


若者はスイスイと軽やかに
ときに小走りで、不安なく。


正真正銘のジイサン・バアサンも
当たり前のように渡ります。
長年、「信号の変わるタイミング」を見計らってきたので
「いつ渡れば、早く向こう岸に着けるか」の勘は
ちっとも鈍っていない。そこに判断ミスはない。
だから、今だ。今、渡るのだ。
多少、無理があってもなんとかなる!
とご本人は確信しているのでしょう。
トボトボと渡ります。


わたしのような初期バアサンは、
まだ速度には問題ありませんが、
早晩、正真正銘バアサンのような渡り方になるでしょう。


周囲を顧みない
ジジババの自己都合によるアナーキー横断ですな。



もちろん若者の横断にも危険は大いにありますが
お年寄りのそれは、
分別があってしかるべき年代だけに
「おいおいおい、バアサン、それは…」と
ドライバーもヒヤヒヤするやら、あきれるやら。
本人にしてみれば、若いときからやっていることを
やっているだけなんでしょうけどねー。

先日、犬の散歩のとき、
公園の高い鉄棒の下をくぐろうとしたら
軽く頭を打ちました。
そこに棒があることがわかっていながら、打つ!
自分で思ったより、かがめてなかったのです。
頭にも、心にもガーンと衝撃を受けました。


自分のカラダを
自分のイメージどおりに動かせていない!
思ったより前屈の角度が浅かったり、
上げた足の高さが低かったり、
のろのろとしか動けていない事態に
少しずつではあるものの、
確実に突入しているのを感じました。
まあ、予兆はありましたけどね。


自分がいつトボトボになったのか、
それを自分で見極めることは、
意外に難しそうなので
「あ。あのバアサン!危ない!
あんなとこ渡って!」とならないように
心に余裕をもちたいものです。
NO MORE せっかち!


先人たちを見ていると年とともに
「面倒くささゆえのショートカット」
「面倒くささゆえのせっかち」が出てくるようなので
そこんとこ、気をつけたいですな。


エレガントを意識してみようか。



夫の発病から今日までのことを書いた新聞連載「献身と保身のはざまで」、
茨城新聞でも連載が始まりました。
他に、熊本日日新聞・岐阜新聞・山陰中央新報・四国新聞にも掲載されています。
お住まいの地域のみなさま、よかったらお読みください。


  詳細や経緯はこちらの記事をご覧ください。

似た境遇の人はもちろん、さまざまな責任を負いながら奮闘する同世代の女性に伝わるようにと願いながら書いています。お住まいの地域の方、読んでもらえたらうれしいです。




フェイスブックツイッターで更新情報をお知らせしています。フォローしたら気軽に話しかけてください♪リアルタイムにツイートしているのでライブ感あります。

ウェブマガジン「どうする?Over40」、ほぼ毎日更新しています。月曜にはこちらも書いています。よかったら、お読みください。「大人になってからの友だち」のよさ。

★いつも応援してくださってありがとうございます!ハッピースマイル

にほんブログ村 ミセス系
関連記事

スポンサーリンク



自分なりの方法で悲しみ、弔え。周囲の視線は関係なし。


加藤和彦氏が妻の安井かずみ氏を失ったあと、
1周忌を待たずに再婚したときは、
「なーんだ、その程度の愛情だったのか」とがっかりしました。


さらに、亡くなった直後に
安井氏の持ち物を大量に捨てていたと、どこかで読み、
「わー。よっぽどイヤだったんだねえ」とも思いました。


わたしのような見知らぬ他人でなく、
周囲の友人たちも幻滅したようなので
加藤さん、すごく孤立したでしょうね。


葬儀の席で悲嘆にくれ、
そのあと、故人の私物を大量に捨てて
周囲があきれるほど早く再婚する。


「周囲の目」を気にしていたら、
こんなこと決してできません。


少しずつ目立たないように捨てればいいし、
一定期間を置いておいて捨ててもいい。
新しい恋人が見つかっても
しばらく大っぴらにせず、
関係を続ければいい。



「悲しみ」や「弔い」の一途な姿には、
「周囲の目」への配慮が多少なりとも含まれる。



いまは、そんなふうに思います。


加藤さんは、
あんなに去就が注目されていたにもかかわらず
周囲の目も気にせず大胆にも家の前に思い出の品々を捨て、
ともに住んだ家を捨て
顰蹙を買うほどの速さで
新しい人に走った。


たしかに安井さんのある種の束縛から、
解放されたのかもしれないけれど、
「解放感」というカタチで現れる「喪失感」だってある。
精神的に不安定きわまりなく、
なぜ、そうしているのか、
本人にもわからない状態で
喪失の痛手と衝撃から抜け出そうと
もがき苦しんだかもしれない。


「なーんだ、がっかりだよ」なんて
悪口言って申しわけなかったな。


夫や妻が病に倒れたり、
突然亡くなったりしたときというのは、、
周囲が想定する「悲しみ」や「苦しみ」の姿があり、
それを当事者もわかっているんですね。


こんなときの悲しみとは
こういう姿でははないか。
こんなときの苦しみとは
こういう姿ではないか。


でも、断言しますが、実際は異なる。


案外、平気なときもあれば
一瞬忘れているときだってある。
しかし、まったく思いがけないカタチで
悲しみや喪失感が襲ってくることもある。
たとえば、明るい光のもとで笑っているようなときに。
心が動かず、まるで平気であるかのような
凪いだままの悲しみだってある。



悲しみにも
寂しさにも
喪失感にも
定型の表現などないのです。




わたしも、いま、
夫の持ち物を処分しはじめようかと考えています。
そして「現実の彼」に必要なものを整えることに
力を入れようと思います。


そもそも、わたしたち夫婦それぞれの持ち物の大半は、
自分以外にとって「ガラクタ」以外の何物でもありません。


雑然とした筆記具、
安価で色あせた服、
いつの間にかため込んだあれこれ。


このすべてに思い出を見るか。NO。
このすべてをここに置いておいて
回復という名の奇跡を信じて
これからの日々を生きるか。NO。


彼の日常が事細かに書きこまれた何年分もの手帳、
大事に集めたフライフィッシングの道具、
その姿が思い浮かぶ服などなど…。
それら以外は、処分をはじめようと思います。
加藤和彦氏のように。


わたしの悲しみのかたちは、
わたしの悲しみのかたち。
喪失感もまた。


周囲の目を気にして
明日への歩みと
自分自身の心の整理を
止めてはならない。


もし、これを読んでいる人のなかに、
状況は異なっても深い悲しみのなかにいる人がいたら、
あなただけのかたちで悲しんで、と伝えたい。
それが「悲しみのカタチ」をしている必要なんてないし、
不謹慎に見えたっていいと
わたしゃ断言しますよ。


悲しみは、人それぞれ。
そして、不定形。



夫の発病から今日までのことを書いた新聞連載「献身と保身のはざまで」、
山陽新聞でも連載が始まりました。
他に、熊本日日新聞・岐阜新聞・山陰中央新報・四国新聞・茨城新聞・秋田魁新報にも掲載されています。
お住まいの地域のみなさま、よかったらお読みください。


  詳細や経緯はこちらの記事をご覧ください。

似た境遇の人はもちろん、さまざまな責任を負いながら奮闘する同世代の女性に伝わるようにと願いながら書いています。お住まいの地域の方、読んでもらえたらうれしいです。




フェイスブックツイッターで更新情報をお知らせしています。フォローしたら気軽に話しかけてください♪リアルタイムにツイートしているのでライブ感あります。

ウェブマガジン「どうする?Over40」、ほぼ毎日更新しています。月曜にはこちらも書いています。よかったら、お読みください。真剣さゆえの滑稽味を醸し出して、今日も「やってしまう」。

★いつも応援してくださってありがとうございます!ハッピースマイル

にほんブログ村 ミセス系

関連記事

スポンサーリンク



かっこよさは、「思うようにいかない人生」という物語の肯定から。


ネットフリックスの「クィア・アイ」を見ています。


5人のゲイのスペシャリスト(ファブ5)たちが
身なりに構わない人を素敵に変身させる番組。


とにかく、褒める。


会った途端に口々に褒める。
家族のなかに飛び込んだら、
変身させる当人だけじゃなく
その恋人はもちろん
子どもだって褒める!


「なんて美しい髪!」
「きれいな色の服!」
「ゴージャスね!」
「セクシーになった!」


5人とも瞬時に美点を探し出すスキルがあるから、
決してお世辞に響かず、
相手の心をほぐすのが見どころです。
まあ、すごい。


そして、その人の「人生」を肯定し
それを物語にして示し、誇りを与える。



一心不乱に働いてきたバーベキュー店を切り盛りする姉妹には、
その店を始めた父から受け継がれる家族の物語を、
親に里子に出され、過酷な状況で生きてきた男性には、
だからこそ、手に入れられた優しさの価値を
看守として働き、夫婦で自給自足の生活をする女性には、
強い女性は美しいという矜持を。


「人生という物語の肯定」は、
心の飢えを満たす「いのちの水」ですなあ。



挫折まみれであっても
敗者だと思い込んでいても
万事に投げやりになっていても、
それには、それなりの原因があり、理由があり
避けられない現実があったのです。
それらの「思うようにならなかった起伏も含めて
自分の人生という物語をまるごと肯定」されたら、
そりゃ、救われるよねえ。


ファブ5(ファビュラスな5人の略)は
わたしのところには来てくれそうもないので
こりゃ、もう、自分で自分の人生を物語にして
肯定してやらねばなりません。
ついでに夫の人生も物語にして
何なら美しい夫婦のラブストーリーにして
思いきり肯定しよう。(←写真を素敵に飾ったりして)


よっしゃ。自分でやるぞ。


5人ともすばらしいですが、
わたしは、美容担当のジョナサン・ヴァンネスさんが
その当人がおそらくなりたいであろう容姿を
抵抗が少ないカタチで実現するところが好き。
メタルロック大好きオヤジ風の人を
ジョン・スノウに変身させたときは
「イケメン!体型なんて関係なし!」と思わず
叫んでしまいました。


近く、日本が舞台になるスペシャルシーズン
配信されるそうですよ。


年齢も、体型も、容姿も、能力も
自虐には、なにひとつ、いいことなし。
かっこよさの道は、脱・自虐私観から、
ですな。



夫の発病から今日までのことを書いた新聞連載「献身と保身のはざまで」、
愛媛新聞でもこの木曜日から連載が始まりました。
現在、熊本日日・岐阜・山陰中央新報・四国・茨城・秋田魁新報・山陽・埼玉の
各新聞で掲載されています。
お住まいの地域のみなさま、よかったらお読みください。


  詳細や経緯はこちらの記事をご覧ください。

似た境遇の人はもちろん、さまざまな責任を負いながら奮闘する同世代の女性に伝わるようにと願いながら書いています。お住まいの地域の方、読んでもらえたらうれしいです。




フェイスブックツイッターで更新情報をお知らせしています。フォローしたら気軽に話しかけてください♪リアルタイムにツイートしているのでライブ感あります。

ウェブマガジン「どうする?Over40」、ほぼ毎日更新しています。月曜にはこちらも書いています。よかったら、お読みください。いまのわたしを前に押し出す、たくましいおしゃれを。

★いつも応援してくださってありがとうございます!ハッピースマイル

にほんブログ村 ミセス系
関連記事

スポンサーリンク