愛のカタチは変わる。「かつてのように愛せない」と苦しまない。


夫は昨年の9月1日に倒れたので
あとひと月半ほどで丸一年になります。


これまで「この時期は、二人で、こういうことをしていた」とか
「この日、彼は、こんなことを言っていたなあ」というかたちで
「夫が暮らしのなかにいた一年前」を
ことあるごとに、ふりかえっては懐かしんできたけれど、
次の9月1日を迎えてしまうと
「去年も、夫は暮らしの中にいなかった」ということになるので、
それが、寂しいなあ、いやだなあ、
そういう一年を、これから重ねていくのかと想像すると
虚しいなあと思います。


疾走し、選択と決断を繰り返してきた一年が過ぎたあと、
わたし、どうやって生きていくのかな。
まあ、生きてはいくんだろうな。
それなりにたくましく。


一年前までの夫と
病床の夫は、
同じではありません。


ほぼ毎日、夫に会いに行ってはいるけれど
同じ夫ではない。


清潔にしておきたい。
居心地よくしておきたい。
肌をすべすべとしておきたい。
体をやわらかくしておきたい。


今、夫に対して思うのは、
そういうことであって
「あの話を聞いてほしい」
「一緒にこういうことをしたい」という相手ではない。


愛情のカタチは、変わったのです。


肉親を看病したり、介護したりしなくてはならなくなったとき、
「変わらぬ愛」を周囲も、自分さえも自分自身に求めることがあるけれど
それは、「愛」というものへの過信と誤解です。


愛情のカタチは、絶え間なく変わるもの。


男女の恋愛がいつしか同士愛のように変わったり、
子どもへの愛情が「手をかけるもの」から
「見守るだけのもの」に変わったり、
親への依存的愛情が、その老いとともに
保護者的責任感に変わったり…。


自立を促した子どもから
いつまでも頼られることを腹立たしく思い、
その逆に、親からいつまでも
過度に心配されることを疎ましく思うのは、自然なこと。
親子の間だけでなく
あらゆる人間関係において
愛情のカタチは絶え間なく変わるのです。



わたしは、日に何度も、
夫が回復し、見慣れた笑顔で
玄関を開けて帰ってくる様子を想像し、
その奇跡を目の当たりにして驚く自分と
それからの反応と安堵を事細かに思い描きます。


そうなったら、どれだけいいだろうと思う気持ちと
愛のカタチが変わったことを冷静に見つめる気持ちは
わたしという一人の人間のなかに共存している。


どちらかが正しいわけでなく
どちらかがあるべき姿でもない。


愛のカタチの変化に
「わたしって冷たい人間なのか」と
悩む必要はない、そう思っています。



私の連載コラム「献身と保身のはざまで」、上毛新聞でも7月29 日(月曜)より掲載がスタートするときゅっぴぃさんに教えていただきました。きゅっぴぃさん、お問い合わせいただき、また知らせてくださり、ありがとうございます!


そのほかに現在、熊本日日・岐阜・山陰中央新報・四国・茨城・秋田魁新報・山陽・埼玉・愛媛・神戸・徳島・北日本・静岡新聞・福井新聞・信濃毎日・岩手日報・東奥日報・神奈川・佐賀・宮崎日日新聞でも掲載(終了紙もあり)されています。

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