頭髪における諸問題の「隠ぺい」も兼ねた、冬帽子へのチャレンジ。


わたしは、ここ数年、
肩より少し長めの髪全体に
パーマをかけているんですが、
それは、「まとめたときに
ボリュームがでて
なんとなく格好がつく」ように。


そういうわけで
いつも、ひとつに結んだり、
くるっとまとめたアップスタイルに
したりしているわけです。


問題は、前から書いていますが
薄毛です。


ちゃんとお出かけするときは、
ミリオンヘアという
「薄毛隠しの粉」と頭頂部にふって
スプレーで飛散しないようにしていますが、
(男性がよく使っているやつですね。
これ、おすすめです。目立たないし。
男性より隠す部分の少ない女性のほうが
使いやすいと思う)

↓これ


「ちょっとそこまで」というときは、
粉を振るまでもなし。


薄いまんま、
堂々と
少ない毛髪の下に
頭皮をのぞかせ
威風堂々、
これが
わたしの老いの道!とばかりに
出かけるのか、
出かけていくのか。


それも立派といえば立派だが、
老いの道は、
できれば、もっと
「素敵ね」方向で突き進んでいきたい。
薄毛隠さず、の道に
気概を発揮するまでもなかろう。


ということで
何か、こう、
かぶりたい。


そういえば、
おばあちゃんたち、
かぶっていましたね。
ニットの帽子。
お花がついていたりとか。
手編み風のやつとか。


よほど頭が寒いのか、と
思っていたけど、
防寒目的だけじゃなくて、
白髪隠し、薄毛隠し、
セットしていない隠し、
もろもろの「隠ぺい」目的が
あったのだなあ。


わたしも、かぶりたい。


犬の散歩のときは、
ユニクロで買ったキャップを
かぶっていますが、
キャップ以外もかぶりたい。



樋口可南子さんは、
犬の散歩のときも
しばしばハットを
かぶっておられます。


こちらの写真。
素敵だな。


わたしもハットをかぶって
犬の散歩をしてみようかな。
しかし、そうすると
ユニクロのパーカーでは、
ちょっと似合わないのではないか。
もっと全体、
パリッとせねば
不釣り合いなのではないか。


そうなのです。


帽子というのは、
頭の上に乗せるだけなのに、
「全体の修正」、
ときに「総とっかえ」を
迫るものなのです。



小さいくせに
注文の多いヤツ。


ここよね。
帽子、特に冬帽子の
敷居の高さは。


夏帽子と同じカタチでも
素材が「木綿や麦わら風」から
「フェルト風の厚地の布」に
変わっただけで
女優感が醸し出されて
大仰になって
手に負えなくなることもあるし。


服飾ディレクターの
岡本敬子さんは、
「ハット、ベレー帽、キャスケットが、
私の3大冬帽子。
帽子をかぶるだけで、
目線が上がり縦長シルエットになるんです」

とおっしゃっています。
岡本さんの身長157センチ。
不肖カリーナ158センチ。
(もっと小さく見えると言われる)


縦長、狙ってみるか。
隠ぺいも兼ねて。





本も引き続き、よろしくお願いします。


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危ういぐらいが「ちょうどいい落ち着きどころ」…という深い洞察。



シリーズ「ケアをひらく」の
その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)
(上岡陽江&大嶋栄子 著)が、
めちゃめちゃ、よかったので
今日はそのことを書こうと思います。


タイトルの「その後」とは、
生育過程において
暴力などのトラウマティックな
経験をして深く傷ついた「その後」。
そんな女性たちの回復過程について
自らも薬物依存の当事者であった
ダルク女性ハウス代表の上岡氏と
DVや性暴力被害者のための
シェルターを運営している大嶋氏が
徹底した当事者目線で
記したものです。


第一章のタイトルは、


「私たちは なぜ寂しいのか」


もう、このタイトルから
心をわしづかみにされますな。
どうですか。
この堂々たる普遍性!
上岡さんの、
薬物依存の当事者であるという自覚と、
長年、支援に携わりながら
当事者研究をしてきたという自覚と
ふたつの自覚が
からみあって放たれる、
シンプルかつ根源的な問い!
「私たちは なぜ寂しいのか」
しびれる。


版元の医学書院に
詳細な目次が掲載されていますが、
苛酷な家庭で育ったわけでなく
薬物やアルコールなどの
依存に陥ったことがなくても
「読みたい!」と思わせる
小見出しの一つや二つは
見つかるのではないでしょうか。


「相談」はなぜ難しいのか。
「開かれたグチ」の効用とは何か。
どれも「そうだなあ」とうなりました。
これは、自分自身と目の前の人とを
理解しようと懸命に努力し、
どんな小さなことも
無意味だと片付けない人だけに
たどりつける深い洞察です。


以下は、大島氏が書いていることですが、
(ぎりぎりの落ち着きどころ P201)
上岡さんの宗教者ともいえる
懐の深さが表れていて
ぐっときました。


性暴力の被害を背景に
薬物にのめりこんでいた
20代の女性が
勾留を解かれた後で
ひとまわり以上年上の男性と同棲を始める
…こんな危うさぐらいが
「ちょうどいい落ち着きどころ」だと
上岡さんは言います。
そのぎりぎりさに
その人たちの居場所があるのだというのです。


ダルクのスタッフたちが、
講演に呼ばれていくときに
なぜか「髪は切ったのに金髪」とか
「スーツなのにあちこちじゃらじゃらと
アクセサリーをつけている」
みたいな姿も、
実は、どこかが「はずれて」いないと
収まりが悪いからだといいます。


中略

だから金髪でじゃらじゃらと
「はずれたまま」で
教育委員会と薬物防止教育の件で
協議するくらいが安全だといいます。


はずれ者として生きることは、
薬物を手放した後で
生き延びるために
必須の方法ともいえるのです。




はずれ者として生きることは、
「その後」を生き延びるための
必須の方法。



私たちが抱きがちな
回復に対する清く正しいイメージを
狭量だと退けるわけでなく、
「ちょうどいい」という言い方で
覆して見せる。


ここで、いきなり
自分のことを書きますが、
わたしは、夫が倒れた瞬間のことを
何度も何度も話したいと思いました。
つらい記憶のはずなのに
何度も話したい。
でも実際には、話していません。
もう、だれも興味がないだろうし、
退屈だろうと思うからです。


しかし、上岡さんは、言うのです。


自助グループのなかでは、
こんなにみんな
同じ話をしているってこと、
普通の人は知りませんよね。
しつこく10年も話しているって
知らないでしょう。


中略


痛みが静かな悲しみに変わるには、
数えきれないくらい
同じ話を
誰かに聞いてもらわないと
いけないですね。



痛みが静かな悲しみに変わるには、
数えきれないくらい
同じ話を
誰かに聞いてもらわないといけない。


湖の水面を見つめるような気持ちになる言葉だな。
ここに書評も掲載されています。



私の本も、それなりに深いです。たぶん。




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断捨離番組が教えてくれる、「片付け下手な人」の愛らしさ。


BS朝日の「ウチ、“断捨離”しました!」を見ると
いろんなことを思います。


最新回の女性は、
定年退職した60歳の奥さん。
断捨離の提唱者やましたひでこさんが
的確な問いをぶつけるたびに、
笑いながら答えていました。


こんなふうに
「笑いながら答える」人っていますね。
どんな心理なんだろうなあ。
自分の問題を「大したことない」と
軽くしたいのか。
笑い飛ばすふりをすることで
問題を霧散させて
「ない」ことにしたいのか。
いずれにしろ、アドバイザーにとっては
もっとも、イラっとくる態度ですな。
やました先生もイラっとしていました。


わたしもイラっとすると思う。
でもね、何度か、回を重ねて見ていると、
この人に限らず、
「断捨離できなくて困っている人は、
どこか愛らしい」のです。
弱くて、不器用で、
ムダにこだわりが強くて愛らしい。


バブル時代の服が捨てられなくて
困っている女性もそうでした。


どちらの人も、
少女の面影を残していて
いっしょにいると
困る面もあるだろうけど、
なんともいえず愛らしかった。


昔の思い出を、じーっと抱きかかえて
うずくまっている感じとでもいいましょうか。


バブル女性は、
自らの披露宴で、
花嫁姿で歌いながら
登場したそうですが、
写真を見てそのことを思い出し、
再び、朗々と歌いあげてみせる。
そのときの表情!
周囲の目を気にせず、
思い出に没入する姿、
これは、「断捨離上手」には
決して踏み入ることのできない
逸脱系表現の領域です。


定年後に片付けられなくて
悩んでいる60歳の女性は、
やましたひでこ先生に
心のなかの思いを問われ
「ずっと寂しい」と言いながら泣きました。


この女性の目が、
ずっと夫を追っていて
「ああ。好きなんだなあ。
好きなのに、満たされなかったんだなあ」と
日常のすれ違いだけでなく
性的なすれ違いというか、
「抱きしめてほしい」という思いまで
伝わってくるようで
グッときました。


こういう、
もろくて、柔らかくて
不器用で、不格好で
どこか相手をイライラさせる
すれすれの「魅力」って
断捨離上手や片付け上手の
ムダのない生き方からは
決して生まれない味わいだと思う。


わたしも、どちらかというと
断捨離人間で、
物事を取捨選択するタイプなので
こういう愛らしさや
人間らしさからは遠い。


「いつもすっきりする」ことと引き換えに
手放した「躊躇」といいましょうか。
その「躊躇」って
つまるところ、
どんどん過ぎていく
「時間の残酷さ」に
駄々をこねるかのような抗議だったり、
幼児性を手放すまいとする
敗北の決まった戦いだったりするんじゃないだろうか。
なんか、それって
運命に対する
本質的な抗いだなー。


ああ。やっぱり、愛しい。


人間って、
寂しさを直視しないために
あらゆる方法で
心や空間の「すきま」を埋めようとするんですね。


やり方が違うだけ…そんな気がします。
…と言いながら、私は、
「無駄な抵抗はせず、
運命に従いたい」ので
きっとこれからも積極的に
断捨離するんだと思う。
でも、それが必ずしも
「優れた能力」とは思わない。
「混沌」とか「躊躇」とか「保留」とか、
そういうものへの耐性が
弱っているのかもしれないもん。




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「丁寧」とは、少しずつ世界を自分好みに変える「粘り腰」のことか。


今年は、3つのベランダから大掃除的なものをし、
次に窓を拭き、
徐々に室内に手を伸ばすという
外側から同心円を描きながら
中心を攻める戦法をとってみたのですが、
このままいくと
台所や洗面所といった
難所に行きつくまでに
除夜の鐘が鳴り響きそうなので
まあ、途中でどっかすっ飛ばして
換気扇の掃除なんかやって
終わりになりそうです。


大掃除をすると
いろいろなことを思いますねえ。


たとえば、窓拭き。
重い腰を上げる前は、
「窓のみ」を拭くイメージなんだけど、
いざ、窓を前にしてみると
桟や窓枠やカーテンレールや
その周辺に焦点が合ってきて
あっちを拭き、
こっちを拭き、
掃除箇所が増大・増殖する。


なぜ、人は、
視線をミクロにすればするほど、
問題が増大・増殖し、
マクロな世界に
永遠に届かない気がするのか。


いったん大掃除を始めると
「家」という、
こんなに狭くて小さいものが、
巨大な宇宙のように感じられる。
銀河系にあまたの星があるように、
家のなかにも
あまたの桟、
あまたの引き出し、
さらにその仕切り、
小箱、袋があり…
あ゛あ゛―――――!


「丁寧な暮らし」と聞くと
手作りの衣食住が浮かび、
何かを「創り出す」方向を
イメージしがちですが、


「丁寧」の本質とは、
視線をミクロに向けると
なぜか増殖してしまう諸課題に臆せず、
改善・向上・美化・発展させることによって
その細部の集積であるところの
「世界」を少しずつ少しずつ
自分好みにしていこうとする
「粘り腰」のことなのではないか。


わたしたちは、
細部と格闘しているときこそ、
自分にとっての「世界」を
変えているかもしれない。



大仰だな。


サッシの桟にたまったホコリを
ブラシで掻きだすとき、
わたしは、わたしの世界を
変革しているに違いない。
ほんとかー(笑)


そういうわけで
今日はクリスマスイブですね。
わたしは、犬のスーとふたりで過ごします。
スー!愛しているよー!


時事通信社に取材していただいた記事が、
静岡新聞、陸奥新報、河北新報に
掲載されています。
この後、他の地方紙にも載るかもしれませんので
よかったら、チェックしてみてください。
(静岡新聞は昨日12月23日の夕刊に掲載されています)




顔写真が大きく載っていますな。
ツイートをクリックし、
さらに画像をクリックすると
記事が大きな画面で読めると思います。
ちなみに青いセーターは、
ディノスのものです。


共同通信社に取材いただいた記事も
地方紙の書評欄に掲載されはじめると思います。(楽しみ!)
もし見かけたら、ぜひ、お読みください。

年末年始に、一気読み、いかがでしょう。
   ↓↓↓↓↓↓




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寂しさにも種類がある。自分を辛くしない寂しさを選んで、いざ。



このお正月は、
いつもと違う過ごし方をする人が
多いのではないでしょうか。


親元への帰省を取りやめたり、
子どもたちが帰ってこなかったり、
一族郎党が集わなかったり、
友だちとの新年会が
とりやめになったり…。


寂しい、
ともいえるし、
気楽、
ともいえる。


面倒に思えた集いが、
懐かしい
とも思える。


先週の25日、金曜日、
病院へ行く前に
百貨店に寄って
お正月飾りやハガキを買いました。


店内は、
クリスマスと新年の商品がまじりあい、
一年でもっとも華やかなとき!


エスカレーターには、
コロナ禍とはいえ、
寄り添う若い恋人たち、
子どもづれの夫婦、
幅広い年齢層の母と娘が
うれしそうな笑顔で
上階の売り場に向かっています。


「ああ、ああいうとき、
わたしにもあったなあ!」と
大学時代や
結婚当初、
娘が小さかったころ、
成長した娘と買い物に来た頃…
などを懐かしく
思い出しました。


胸のなかが、切なくて、甘い。


ああ、ここにいる人たちの
幸せそうな笑顔が
ずっと続きますように!と
祈りました。


聖人みたいだな。


いや、でも、ほんとに。


しかし、一歩、間違えば
「ああ、わたしだけが一人!」という
そこかしこにいる
「一人」の人たちに
気づかないだけの
被害妄想的孤立感に
陥りそうなところを
「幸せを願う」という
「良き感情」に
もっていくことができて
よかった!


うん、こっちだ、
と思いましたよ。


寂しさにも、
おそらく種類があるのです。


ぐっとこらえて
強さを鍛える寂しさ。
思い出に浸る、
切なく、甘い寂しさ。
寂しさの理由を
自分以外に求めて
僻みを研ぐ寂しさ。
寂しい、寂しいと
呪文を唱えるように
ひたすら気分の沼に
沈み込んでいく寂しさ。


どれがよくて、
どれが悪いわけでなく、
どれが正しくて
どれが間違っている
ということもない。
そのときの必然性だってある。


しかし、


どうせ、人間、
いつか必ず
寂しくなるのだから、
自分を辛くしない種類の
寂しさを手に入れたほうがいい。



わたしは、
「鍛える系」と
「甘く切ない系」を
織り交ぜつつ、
だからこその
「自由」を楽しむ方向で
いきたい。
できる限り。


もう大晦日。


姉が長崎から
果敢にも大阪に
やってきているので
高齢姉妹(わたしと姉)と
犬一匹で迎える
お正月となりました。


姉とわたしでは生活リズムが
まったく違うので
自分のペースでは
何事も進みません。
こういうときは、「段取り脳」を一字停止させて(←去年の今頃、似たようなことを考えてました)
心をのんびりさせ、
仕事はじめに備えます。


いま、東京の新型コロナ感染者が1300人超という
速報が入りました。どうか、お気をつけて。
そして、どうか、みなさま、いいお年をお迎えください。
来年も、よろしくお願いします。
元気に、笑顔で、会いましょう!


★わたしの本への感想を
すばらしい文章で書いてくださっています。
相反する思いの狭間で、いかに折り合いをつけて生きていくか
〜エッセイ「夫が倒れた!献身プレイが始まった」を読んで〜

この方のお母様が購入した本を
実家で見つけて読んでくださったとか。
とてもうれしい感想です。
引用も多く、本の中身も伝わります。
ぜひ、お読みください。





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