幸福な感覚を支える、何ということはない積み重ねが生む「空気感」。



スーとの暮らしが、
しみじみと、いいものになってきました。


スーというのは、
3歳半の雑種、オス、
18キロの犬です。


相変わらず、
グイグイ行くし、
拾い食いもするし、
疲れ知らずで、どこまでも歩くし、
散歩は、大変なんですが、


かすかに落ち着いてきているような
気がしないでもなし。
(…という程度)


でも、これだけは確実に
変わったということがあるのです。


それは、周囲の反応です。


公園の子どもたちが
「あー、あの犬ね、
いつも来る、あれね」となっている。
スーは子どもが苦手なので
我関せずと歩くのですが、
それでも、しばらくは
子どもたちの間に
「こわ!」「デカっ!」という緊張が走っていました。


それがいまは、
遊びながら、キワキワまで
スーの近くを平気で走りまわる。
2、3歳の子たちもまったく平気。
ちらっと見て遊びに戻る。


実は、これ、
通り過ぎる大人の人たちにも
似たような変化が起きているのではないか、と思うのです。


とりたてて可愛く思うでなし、
意識するでなし、
だが、警戒もせず、
迷惑にも思わず、
見慣れた風景の一部になっている。


そのことが散歩中の
私とスーのまわりの空気を安定させ、
それによって
スーがかすかに落ち着き、
それによって、
また周囲が警戒心をなくし、
それによってまた、スーが…。
この繰り返しが重なり、
徐々に徐々に
散歩がラクになっていっているのではなかろうか。


ぼんやりとした「馴染み」の醸成といいますか。


別段、声をかけあうでない、、
撫でるでなし、
可愛がるでなし。
「ああ、いつものあれね」の
凪いだ関係性。


今日は、いつも無言ですれ違うおじいさんに
公園の出口で鉢合わせしたところ、
「君もよく歩くなあ!お疲れさん」と
同志のように声をかけられました。スーが。


ああ。わたしも
この長身のおじいさんを
知っているけど
このおじいさんも
犬とわたしを
そんなふうに見ていたんだなあ、と思いました。
「君も」の「も」には、
「僕もよくウォーキングしているけど」の
「も」が含まれているのでしょう。
いつの間にか芽生えていた「連帯感」。


急がないこと。
多くを求めないこと。
待つこと。
繰り返すこと。


その小さな積み重ねが
見えないところで
かすかな変化を起こし、
それが薄く幾重にも重なり、
少しずつ伝播し、
互いに影響しあい、
雰囲気が変わっていき、
ふっと緊張がとけて
深呼吸するように
ラクになる。


「幸福」というのは、
案外、そういうプロセスを経て生まれる
「空気感」のことを呼ぶのかもしれませんね。



スーとわたしは
言葉で理解しあうことはできないので
そんな「空気」のやりとりのなかで
じわじわと
「信頼のようなもの」
「愛情のようなもの」を
育てていけたらいいなーと思います。


「のようなもの」を
「のようなもの」のまま
大事にしていきたい。


春になったし
散歩は最高です。
疲れるけど。






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「孤独を楽しみ、上手に生きろ」というミッション・インポッシブル。



父母がまだ元気だったころ、
姉と温泉旅行に行ったことを
わたしには内緒にしようとしていたことがありました。


「自分たちだけ
いい思いをして
あっちゃん(わたし)に悪い」
という気づかいですね。
「あの子だって行きたいだろう」と
思ってくれたのでしょう。
おいしいケーキを自分たちだけで
食べてしまう感じか。


当のわたしは
「そんなこと隠さなくていいのにー。
ガンガン行ってくれていいのにー」
と思っていました。


いまも、同じように思うだろうけど、
そのときの気持ちは、
自分も気にしないかわりに
こっちのこともほっといてほしい
というのに近かったともいえる。


老いつつある親には、
「自分(たち)だけで
楽しみを見つけて
充足して、
元気でいてほしい」と思っていました。


父が亡くなったあとの母が
たとえば、
「自分ひとりで
海外旅行だってしちゃう」とか
「サークル活動で大忙し」とか
「庭の野菜づくりで充実」とかなら
最高だったな。
そんな親ならいいなーと
思っていました。


実際には、
どんどん老いて
認知症が悪化していったのですが…。


現代の
「老い」と
それにともなう「一人暮らし」には、
孤独を上手にコントロールし、
自分で外に出かけ、
人間関係を作りだし、
うまくやっていき、
やっていかないまでも
何か楽しみを見つけ
生き生きしていることが
求められます。


わたしも、そうでした。
老いつつある親に
いつだって、
それを求めていた。


そして、高齢者同士の間にも
そんな叱咤激励が
飛び交っています。
「外に出よう」
「用事をみつけよう」
「生きがいを探そう」
「楽しもう」


でも、わたしはわかる。


まだ老いの入り口に
立ったばかりだけど
その脅迫的な
「孤独を上手に
生きなければならない」という
使命感に似た意識の下に忍び寄る


胸から背中にかけて
ひたひたと広がっていく
沼のような寂しさと
「上手になんか生きられないよ」
という恐れに似た気持ち。
あと、そんな気の「張り」が
なんらかの事情で
崩れてしまうのではないかという
常時、存在する不安。


ねえ。


年をとるって
そんなに簡単じゃないね。
亡き父と母に
ようやく今、話しかけられるな。


そして、そんな「子」の思いを知っているだけに
わたしは、自分の娘に対して
「孤独を上手に生きている親」で
あろうとするだろうし、
もう、そうしようとしています。


人間の後半生は、
「手のかからない存在」で
あり続けようとする
果敢な努力の連続なんじゃないか。
ご苦労なことだ。


このブログは、せめて
「生き生きとばかりしてられねえよ」
というあたりを
「あの人も、冴えない老後ねえ」と
言われるのを受け入れつつ、
書いていこうと思います。


ポジティブ一辺倒は、
自分の首を絞めるよ。


ウェブマガジンのメンバー、ミカスさんとつまみさんのポッドキャストにゲスト参加しました。
【第7回】でいろいろ話しています。よかったら、お聞きください。





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コロナ禍の必然か?生来のグータラか?もはやわからぬ宙づりデイズ。



昨年10月に出版した本のなかに


夫が生と死の間で宙づりになっているように、私も妻と寡婦の間で宙づりになっている。

世界の外側に放り出され、安住の地は見つからず、あらゆることの傍観者になってしまったようだ。

地につかない足が、ブラブラと力なく揺れっぱなしだ。




と書きました。


夫が倒れて
遷延性意識障害になったのが
2018年の9月。


以来、「宙づり&足ブラブラ状態」は
続いていますが、
それに加えて
コロナウイルス感染予防のための
行動制限に継ぐ
行動制限に継ぐ
行動制限。



「動くな。待て。
今じゃない。
事態が落ち着くまで待て」
状態の継続。



この「動くな。待て」状態は、
どこか
「何もしない。グータラ」状態と
似ている上に、
「動いてはいけない」ことによって
次第に、
生来のグータラに拍車が
かかっているような
そもそもの怠惰に
お墨付きがもらえたような
そんなこんなで
なんかこれはまずいような
コロナを
エクスキューズにしているような
義務を果たしていないような
こんがらがった気分になって
んもう、あ゛―――っ!
となることがあります。


月に一度、
夫と5分だけ
面会できるのですが、
見る影もないほど
痩せてしまった姿を見ると
冷たい鉛をゴクリと
飲み込む気持ちになって
その気持ちとは対極の
笑顔を作るのに必死です。


そうしながら
自分の冷酷さに
向き合い、
シンとした
気持ちになります。


これは、
わたしのケースです。


それぞれの人に
それぞれのケースあり。
静かに、知らぬ間に
どこか狂っていくような
パンデミックの世界。


何より恐ろしいなのは、
「ない」ことに慣れ、
いつの間にか「忘れ」、
気づいたときには、
「消えている」こと。



大変な時代を生きていますね。
なんだか、ずっと夢のなかにいるみたい。



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【本の中で好きなところ紹介】「熱意」と「帰りたい」のはざまで


何がなんだか、
わたしの住む大阪はもはや
重症病床の使用率が
100%に達しているというし、
インド型二重変異株とやらが
国内で発見されたというし、
コロナウイルスがいよいよ狂暴化してきたようで、怖し。


初夏の日差しが
「ああ。ゴールデンウィークの光!」と
思わせてくれるものの、
またも緊急事態宣言ですよ。ふー。
疲れましたなー。


みなさま、無事にお過ごしですか。


先週の記事で何の気なしに
拙著「夫が倒れた!献身プレイが始まった!」
から引用をしたら
「あの一節で本を買った」という
うれしいメールをいただいたので
そんなことなら、
ちょっとわたし自身が
気に入っているところを
抜粋して紹介しようかと思い立ちました。


「いや、そんなの結構です」という方も
大勢いらっしゃるでしょうが、
まあ、そう言わず、
改めて味わってみてください。


わたし自身は案外、
どうでもいいような軽いところが
気に入っているので
まだ読んでいない方には、
ちょっと違う目線で楽しんでもらえるのではないかと思います。


本のなかの
真ん中より後にある


「熱意」と「帰りたい」のはざまで


というパートは
ほぼ最後の段階で書き加えた箇所で
軽い感じですが
「こういうとこも、書いておかねばならぬ」と
使命感のようなものを感じて書きました。


それが、こちらです。


回復期リハビリテーション病院にナースステーションというものは存在せず、看護師さんたちは、廊下の一角にある事務スペースでカルテなどの管理をしていた。「FAMILY」と書かれたカードを首から下げていれば、家族も出入り自由。スタッフはみんな忙しく立ち働いているため、知っている人に誰も会わないまま病室に着いてしまうこともしばしばだった。

そうなると、「すでに来ていることを知らせておきたい」と切に思う。

タイムカードか出席簿が欲しいぐらいだ。トイレに立ったときに「こんにちは!」と担当の看護師さんと挨拶を交わせたら、ホッとした。早めに来ていた私の目撃者を少なくとも一人は、確保できたからだ。

看護師さんをはじめとするスタッフに「あそこは、ちゃんとしている」と何ともしても思われたいのだ。彼らが一丸となって看護とリハビリに取り組んでくれているだけに、私が気を抜くわけにはいかない。「後悔しないように全力を尽くす」と心に誓うべき人間は、誰よりもまず妻の私であるべきだ。真のチームリーダーとしてその姿勢を常に示す必要がある!

(中略)

夕方のリハビリが難関だった。いったん始まってしまうとセラピストとの会話も盛り上がり、「奥さん、この方法も教えておきましょうか」と提案されることもある。私の熱意を認めて教えてくれるというのだから、うれしい。ぜひとも、教えてほしい。断るなんて不本意だ。やる気満々。だが、今は帰りたい。

リハビリ開始と同時に「では、今日は失礼します。すみませんが、あとは、よろしくお願いします」と言えればいいのだが、そのタイミングを逃すと、時計を気にしてモジモジしながらつきあった。我ながらバカだなあと思う。同時に涙ぐましいなあとも思う。

一生懸命とは、案外、こういうものではなかろうか。献身する人の心のうちは、実は、千々に乱れているのではないか。




最後の一節、好きだな。
この滑稽さ、今、読んでも愛おしいと思います。


いまは、コロナウイルス感染予防で
こんなふうに「病院や施設で葛藤」することも
難しくなっているけれど、
同種の「葛藤」を抱えて
ドタバタする人は多いだろうから、
この滑稽さを伝えたいと思いました。
伝わっていますように。


あとちょこっとだけ
「本のなかの好きなとこ紹介」続けさせてくださーい。
本はこちらです→夫が倒れた! 献身プレイが始まった



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「新しい人を歓待しつつ、自分のなくしたものを惜しむ」二重構造。


今週の月曜、
ウェブマガジン「どうする?Over40」の記事に
いつか、順番は回ってくる。これから先も。
という文章を書きました。


このブログにも何度か登場している
お隣のYさんご夫妻が二人とも亡くなり、
部屋が売りに出されていたのですが、
新しい買い手が決まり、
引っ越してきたみたい…という内容です。
よかったら、読んでみてください。
わりと気に入っています。


で…。


昨日、回覧板を回して帰ってくると
上の階から、いつもやさしいMさんの
「まあまあ。ご丁寧にありがとうございます」
「いくつ?かわいいねー」
という愛想のいい声と
「よろしくお願いします」という
男性のしっかりとした声が聞こえてきます。


あ。挨拶まわりだ。うちにも来るぞ。


なんだかそわそわして
自分ちの玄関を開けると
雨の日に犬の散歩を終えた直後の惨状が広がっています。


犬を拭いた蒸しタオル、
乾いたタオルにバスタオル、
折り曲がって倒れた泥のついた長靴
びしょ濡れの散歩バッグに
リードにハーネス…。


ちょっと待って、ちょっと待って。
第一印象がこれではまずい。
片付けろ、片付けろ。


自分のボサボサの髪も
なんとかせねば。


お相手にとっても
挨拶まわりの「本丸」は
唯一のお隣さんであるところの
うちであるのは間違いなし。
(あとは足音の響く階下か)


「お隣の人、素敵!」とまではいかずとも
「お隣の人、いい感じでよかったねえ」
とは言われたい。
いや、そうまでいかずとも
長いおつきあいになるんだから、
「お隣の人、ボッサボサやな」は避けたい。


そんな具合にあたふたして
片付けたところ、
ピンポンは鳴らず。
夕飯を食べてすっかり油断したころに
「隣に越してきた〇〇です」と
ご挨拶に来られました。


30代前半から半ばのご夫婦。
2歳のかわいい男の子。
感じがよくて、
今風だった。
奥さん、おしゃれで美人だった。


「小さな子どもがいるので
ご迷惑をかけるかもしれません」
「いえいえ、そんなの、
まーったく気にしないでください!」


大らかさを見せようと
ちょっと大げさに挨拶して恐縮して
ゆっくりと扉を閉め、
いい人たちでよかったと安心しながら、
リビングに戻り、
じゃれつくスーをいなしつつ、
いただいた包みをテーブルに置いたら、
ほんの少し、取り残されたような気がしました。


むむ。どうした、わたし?


あー。たぶん、この場所に
たくさんの「思い出」を抱えたわたしと
たくさんの「未来」を描く彼らの
見つめる先にあるものの違いを
顔を合わせた瞬間、
手に取るようにはっきりと実感したのでしょう。


この人たちが
うちのインターフォンを押しながら
何気なく見ただろう表札にある名前の主が
もう決して姿を現すことがない、ということにも
胸のなかがシンとしました。
こうやって人は瞬く間に
「最初から存在しなかった人」になり、
風景は上書きされていくのだ。


ズシリ。


・・・という感慨や感傷とは別に
2歳の男の子の
元気な声が聞こえるのはいいものです。
お隣が仲が良さそうなのもうれしい。
男の子がランドセルを背負うころ、
スーと心を通わせられたらいいな。


はっ。本の抜粋をすると言っていたのに
長々と書いてしまいました。
本のお気に入りの箇所紹介は、次回に!




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