「生きがい主義」や 「人生の勝敗」を無意味化してくれる爽快感。
2017年にアメリカで発売され、
ベストセラーになった
ミン・ジン・リー著パチンコ 上 (文春e-book)を
読みはじめました。
「4世代にわたる在日コリアンの苦闘」を
描いてある大きな物語なので
冒頭に登場するフニという男性は、
あっという間に亡くなってしまいます。
これこれこんな身体的特徴を
もって生まれ、
真面目に生き、
結婚して子を設けて
結核で死んだ、みたいな。
常々、どちらかといえば、
一人の人生の細部や
内面の細やかな葛藤が
描かれているものに
慣れていることもあり、
さらに自分が、
自分の内面に
興味をもち、
と言うか、
それしか興味がないぐらいに
ああでもない
こうでもないと
飽きずに考えているので
あら?と思いました。
あ、そうか。
そうよね。
長編ではそうなるよね。
わかっていたはずなのに
不意を突かれたような
いきなりのことに
つんのめるような感覚。
4世代ですもんね。
私の父母の父母のそのまた父母。
曾祖父&曾祖母の
人生まで遡るわけですね。
「ひいおじいちゃんも
おばあちゃんも知ってるよ」
という人は
もちろん、いるでしょうが、
さすがに、その若いころは
知らないでしょう。
わたしの場合、
祖母が確か、
明治33年生まれだったと思うので
曾祖母は、明治初めか
江戸末期の生まれか。
ああ。
もう、大河ドラマの世界。
この世に生れ落ち、
生きて、
死んだ。
人間だれしも、
要約すれば、
それだけ。
わたしも、人生後半に入り、
夫が予期せぬ形で
倒れたこともあり、
要約すれば
わずか1行で済むような
人生のあり様に
納得がいくのです。
生きればいい、
どうであれ、
生きればいい。
あとは、何もしなくても
いずれ死ぬ。
この元も子もなさが、
「生きがい主義」や
「人生の勝敗」ごときを
根っこから
覆して無意味化してくれるような
爽快感。
この視点をどこかに
持っておけば、
老いる自分を
ことさら憂えず
どこか突き放すことに
役立つかもしれません。
まだ読み始めたばかりなので
これは、小説「パチンコ」の
感想ではありません。
とても面白いので
じっくり長編を読みたい方、
おすすめです。
そうそう。
いきなり、私事ですが、
拙著「夫が倒れた!
献身プレイが始まった!」が
Amazon Kindle Unlimited
(読み放題)に入りました。
ブラックフライデー期間は、
(本日12月2日23時59分まで)
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俳人・夏井いつき氏(64歳)の、どの瞬間もはつらつとした美しさ。
長崎でひとり暮らしをする姉ちゃんは、
毎朝、電話をしてきます。
話したい、というのもあるだろうけど、
「妹は無事か」の確認もあるでしょう。
その姉ちゃんが、
「だれだって老いても
素敵でありたい、
綺麗でありたいと思うけど、
なかなか、そうはできない。
思うだけでできなくて
何となくしょんぼりして過ごす人が大半。
そのとき、あんなふうに素のままで
あんなふうに魅力的なのを見せられると
『ああ。打ち込む人間ほど
美しいものはない』と思って
救われるような、
励まされるような気がした」
と言っていました(長崎弁で)。
「あんなふうに素のまま」な人とは、
NHKプロフェッショナルの流儀に登場した
俳人の夏井いつきさんです。
ご覧になりました?
さっそくNHK+で見たら、
確かに爆発的に魅力的でした。
俳句や創作については
ここでは置いておきますね。
あくまでも64歳の女性として
どこがそんなに
姉ちゃんの心をとらえたのか。
「すっぴんよ!
最初なんか、
ベターっと首に湿布貼っとると」
確かに貼っていました。
わりに雑にペタリと貼っていた。
それだけでなく、
デスクに座る
素足のかかとの少し乾燥した感じ。
時折映る、これも少し乾燥した
爪に入ったいくつもの縦の線。
濃いピンクのTシャツ。
ウェストゴムに違いない
見るからに楽そうなパンツ。
番組中、何度もかきあげ、
何度も後ろにくるっと束ねられる
白髪交じりの髪の毛。
投稿された5000句すべてに
目を通し、そのうちの一つの句の
言葉が気になり、
「調べて」と頼んだ夫が、
「あ。これかも」と
検索結果をパソコン画面で見せると
「ああああ、そうかあ!」と
驚きながら、
やや気もそぞろに、
夏井さんは隣の扉へ。
あの行動の自然さ。
迷うことない速度。
あれは、トイレに直行したのではなかろうか。
「飾らない」というけれど、
徹底して飾らない、
ありのままの日常を
気負いもなく
自信があるからできるというふうな
あえて打ち出す感もなく、
あっけらかんと見せることの
突き抜けた迫力と魅力!
衣服も、化粧も
人を魅力的に見せる力なんて
本当にたかが知れているんだなあ。
ラストシーン。
「鶴を抱くやうな余生をたのしまん」
という句とともに流れた
夫である加根兼光氏が運転する
車の助手席に
身も心もリラックスして座って
話に興じて一瞬、
椅子から浮き上がるように
からだを弾ませる
夏井さんの様子に
夫婦の「余生」の幸福を見た思いがしました。
どの瞬間も、はつらつとし、
キラキラと粒だっています。
いかようにも楽しめる
何度でも味わえる
ドキュメンタリーだ。
NHK+では
来週火曜日まで視聴可能。
夏井さんのYouTubeチャンネルに
その内幕を語る動画もありました。
動画、どれもおもしろくて見ごたえあります。
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心の闇に大きくしなり、 その力で光のほうに歩み出す。
月曜日にウェブマガジンのほうに
まだ暗い朝、ソックスを履くときに
オバフォーを思う理由。
というタイトルの文章を書きました。
犬の散歩に行くために
早朝着替えるとき。
腰をかがめ、
「いた!かたっ!」と
思いながら、
靴下を履く。
そのときに決まって
このブログやウェブマガジンの先にいる
ほぼ同世代の人々を想像する
というものです。
その理由として、
編集されない何か、編集されたときに必ず捨て去られる何か。誰かに言葉や映像として渡されることなく、日々、自分の中でだけ生まれ、消え、そしてまた生まれて定着していく何か。その繰り返し。繰り返しが何事かを貯め、削り、変わっていく自分の内面…そういうものを正確に言葉で表現できたとき、何か深い、本質的な共感が生まれるのではないか。そう信じたいのかもしれません。
と書きました。
そういう瞬間は、
ほかにもあります。
夫の病院からの帰りです。
商店街のとても安い肉屋さんで
オーストラリア産の赤身牛肉と
鶏ムネ肉2枚を買います。
スーのごはん用です。
その肉屋さんは、
それぞれの肉を透明のビニール袋に入れ、
それをさらに一つの透明の
ビニール袋にまとめて入れて
値段シールも貼らずに
ひょいと渡してくれます。
支払いは現金のみ。
ズシリと重たい、
赤い肉と薄桃色の肉。
ビニール越しにも
肉片の湛える
「血」という液体の
かすかに、たぷたぷとした揺れを感じます。
「ありがとうございます」と
受け取ってバッグにいれます。
その下には、もう一つの
ビニール袋が入っています。
夫の濡れた洗濯物が入った
ビニール袋です。
もう片方の肩にも
夫の着替えの入ったバッグを下げています。
トートバッグの肩ひもを片方はずし、
肉の入った生々しい袋を
ドンと入れる瞬間、
わたしの脳は
そこに「付箋」を貼ります。
早朝、まだ暗いなかで
ソックスを履くときと同じように。
大げさですが、
自分と世界の関係を
象徴するような気がするのでしょう。
夫の知らないわたし。
夫は知らない、
わたしだけが知っている
夫自身の洗濯物と、
その上に置いた
牛と鶏の肉の合わさった重み。
どちらも袋のなかで
じっとりと濡れ、
病の床でかろうじて生きているもの、
生きていたが殺されてしまったものの質量を
無言で主張します。
ダークで、少し生臭い感覚。
こんな組み合わせ、
かつて一度でも想像したか!?
それをぶったぎるみたいに
よいしょとバッグを抱えなおし、
駅に向かって歩きだすのです。
これが、私の日常だ。
こういうふうにして
生きて行くのだ。
なぜか、毎回、
諦めとも決意ともつかぬ気持ちで
仕切り直して歩み出します。
夫が倒れなければ
決して通ることのなかった道で
知ることもなかった店で
犬のために肉を買う。
その下にあるのは
夫の洗濯物。
これもまた、
編集されるときには
消えてしまう
一瞬の動作です。
昏い心の闇に
一瞬大きく反り返るように撓り、
その力をバネに
光のほうに歩み出す。
そういう明るさもあり、
それもまた嘘の明るさではないのだ、と思います。
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詩の言葉「いまも私はこどもです」、そして今後のブログについて
ウェブマガジン「どうする?Over40」で
メンバーのミカスさんが中心になって
進めている介護トークイベント「在宅デトックス」。
昨夜、今年最後の会が開かれました。
わたしは、遅れて参加したのですが、
終わりのほうでミカスさんが、
「次第に自分より大きい人がいなくなる」
という話をしていました。
ここでいう「大きい」とは
両親をはじめとした
「自分を庇護してくれる人たち」のこと。
「そうだよねえ」と深くうなずきました。
そこから、
「自分にとっての家は、
いつまで経っても
生まれ育った家。
その家がなくなると
『家』がなくなる」
「認知症の人が
家に帰りたがる気持ちがわかる」
「いつまでも誰かに
庇護してもらいたい思いは
常にどこかにある」
というような話になりました。
そこで参加した方のお一人が、
「詩にありましたね。
石垣りんだったかな」
と一編の詩の話をしてくださったのです。
あ。あったぞ。
そんな詩、あった。
「在宅デトックス」の終了後、
探してみました。
そして見つけました。
確かに石垣りんでした。
「かなしみ」
私は六十五歳です。
このあいだ転んで
右の手首を骨折しました。
なおっても元のようにはならないと
病院で言われ
腕をさすって泣きました。
「お父さん
お母さん
ごめんなさい」
二人とも
とっくに死んでいませんが
二人にもらった体です。
いまも私はこどもです。
おばあさんではありません。
父と4度目の妻である義母と暮らした
作者ですから、
「お父さん お母さん」に
甘く、優しい思い出だけが込められているはずはありません。
それでも「ごめんなさい」という気持ち。
そして、最後の二行。
「いまも私はこどもです。
おばあさんではありません」
六十歳のいま、
痛切に胸に沁みる。
みなさま、今年もお世話になりました。
思いつくままに書く文章を
読んでくださって
本当にありがとうございます。
来年からは、
アメーバオフィシャルブログ
「ともに生きる」に
完全に場所を移して更新していこうと思います。
ウェブマガジン「どうする?Over40」でも
引き続き、毎週月曜日に書いていきます。
★メールは確認しますので
当ブログのメールフォームをご利用ください。
ここは、わたしにとって
47歳から60歳まで書き続けた
大切な場です。
ですから、このまま残しておきます。
時々でも思い出して
読んでもらえたらうれしいです。
これからも、よろしくお願いします。
温かく、心豊かな新年をお迎えください。
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★月曜にはこちらも書いています→自分の日記がつまらなかった。あとになって読んでも面白い「日記」を書いてみたい。
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