前々回から書いている
「決断して行動する」ということについて
もう少しだけ続けますね。
母の葬儀は、姉の意向を受けて
家族と最期まで親身にお世話くださったグループホームの方だけで
行いました。
その後、姉は和尚さんや友だちに
「そんなに頑なにならなくても…」と言われたらしく、
少し心が揺れたようです。
お母さんに悪いことをしたのではないか。
後悔は、つねに一点。
ここに尽きます。
わたしは、
「よかよ。お姉ちゃん。
一般論や正論で言えば、
もっといい方法はあったと思う。
親戚にも伝えたほうが、そりゃ、よかったやろう。
でも、わたしたちで決めたことやけん。
これでよかったと思う。もう、迷わんとこう」
と言いました。
わたしは、離れたところで呑気に過ごしてきて
母の介護の主体でありつづけたのは姉です。
葬儀についての姉の不安や心労は知っていたので、
姉の意思を尊重したかった。
思えば、母が認知症になってから
特に姉は、罪悪感との闘いでした。
不思議なもので
人間は「わが子」の意思は、やすやすと代行し、
ときには「よかれと思って」、
その意志を完全に無視し、
あれこれと決断して平気な顔をしていますが、
「わが親」についてはできません。
かつて自らの意思で生きていた時代を知り、
自らの意思で行動していたことを知っているから、
決断を代行する、ことそのものに
申し訳なさと罪悪感を覚えるのです。
デイケアに行かせること、
入院させること、
施設に入所させること、
手術すること、
すべて、すべて、そのすべてに。
わたしと姉の父母は他界しましたが、
このブログを読んでいるみなさんのなかには、
今まさに、「決断の代行」と「自らの幸福の追求」のはざまで
罪悪感に苦しんでいる人が大勢いると思います。
その罪悪感は、親の晩年に責任をとっているがゆえの、
「決断を代行している」がゆえのものだと
声を大にして伝えたいです。
決断の代行は荷が重い。
その罪悪感も含めて
「決断を引き受ける」ことであり、
親を看取ることなのだと思います。
心を鬼にしてでも
決断を代行したほうがいいときもあります。
自分を犠牲にしても、しなくても
罪悪感は消えない。
「決断の代行」に、それは、もれなくついてくるから。
わたしより多くの罪悪感を引き受けつづけてくれた姉に
心から感謝します。
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