ウェブマガジン「Over40」(オバフォー)で
月曜から土曜まで毎日更新されている「カレー記念日」。
(カレーは、加齢とかけてます。記念日は、「サラダ記念日」から来ています。
言わずもがなか)
今日は、月亭つまみさんの
鏡見て 昔の自分に 別れ言う
6月16日はカレー記念日
でした。
その後、この一首についてオバフォーメンバーでもある
ミカスさんという方が
本当は「ちょっとだけ後ろ髪」どころか、
怖くなることがあります。
容姿や体の機能や色々な状況が、
私の核(何て言ったらいいのかなぁ)を
置き去りにしていくようで。
とツイートしていました。
つまみさんのカレー短歌も
ミカスさんの言葉もすごく心に響きました。
容姿や体の機能の色々な状況が
私の核を置き去りにしていく。
ほんとにそうだ。
そして思い出しました。
わたしは、いつも、どこか「38歳」で止まっていることを。
もう少し、広げるなら「38歳から42歳ぐらい」の感覚で止まっていることを。
この不思議な感覚を
どう説明すればいいのだろうとずっと考えてきました。
17歳ではダメ。
24歳でもない。
23歳でも、32歳でもない。
つまり「若さへの回帰欲」ではないのです。
今日、つまみさんとミカスさんのやりとりを読んで
自分自身の「思慮」と「肉体」が
ちょうどよい感じに合致したのが、
38歳ぐらいだったのではないか。
と思いいたりました。
20代はあちこちに頭をぶつけることが多く、
自分自身も浅慮で、
なかなか社会に適応できませんでした。
どうしたら適応できるのか
適応できる環境を見つけられるのかに苦しみ、
若い肉体は、今より多少なりとも美しくても
「当然のもの」でしかなかったのです。
(同世代との比較で悩んだりもしていたし)
それがようやく落ち着きはじめた30代後半から40代前半。
自分自身の「思慮」の深まりと
自分自身の「肉体」の状況と
周囲のわたしに対する「取り扱い方」が
相互に傷つけあうことなく、比較的、平和に共存していて、
加齢が与える成長段階のピークに与えられる呼び名=「大人」というものと
もっとも一致していたのではないか。
だから、そのあたりで止まっている感じがするし、
そのあたりの「自分」でいることが
いちばん、居心地がいいように思うのです。
(生殖可能年齢である、ということも大きいでしょう)
それは38歳のわたしが実際に大人だったかとか、
とても幸福でバランスがとれていたかとか、
そういう現実とは別の問題です。
実際には、そんなことなかったし。
それでも、わたしの感覚は38歳から40代の前半あたりで止まっていて
55歳の今も、
そしておそらくはこれからますます、
「容姿や体の機能の色々な状況が
私の核を置き去りにしていくよう」に思うのでしょう。
置き去りにされた「核」がさびしがっている。
物理的な時間と体内時計は乖離し過ぎていて、
宇宙飛行士が地球に戻ってくると周囲より老けてない(ウラシマ時間?)
みたいなことになってるのかも、
と真剣に考えたことがあります。
それならそれで、
みんな置き去りにされた核があるという共通項で
一緒にぎくしゃくやっていこう、みたいな。結論出ず。
これは、ミカスさんへのつまみさんの返信です。
みんな置き去りにされた核があるという共通項で
一緒にぎくしゃくやっていこう。
一緒にぎくしゃく。
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