加藤和彦氏が妻の安井かずみ氏を失ったあと、
1周忌を待たずに再婚したときは、
「なーんだ、その程度の愛情だったのか」とがっかりしました。
さらに、亡くなった直後に
安井氏の持ち物を大量に捨てていたと、どこかで読み、
「わー。よっぽどイヤだったんだねえ」とも思いました。
わたしのような見知らぬ他人でなく、
周囲の友人たちも幻滅したようなので
加藤さん、すごく孤立したでしょうね。
葬儀の席で悲嘆にくれ、
そのあと、故人の私物を大量に捨てて
周囲があきれるほど早く再婚する。
「周囲の目」を気にしていたら、
こんなこと決してできません。
少しずつ目立たないように捨てればいいし、
一定期間を置いておいて捨ててもいい。
新しい恋人が見つかっても
しばらく大っぴらにせず、
関係を続ければいい。
「悲しみ」や「弔い」の一途な姿には、
「周囲の目」への配慮が多少なりとも含まれる。
いまは、そんなふうに思います。
加藤さんは、
あんなに去就が注目されていたにもかかわらず
周囲の目も気にせず大胆にも家の前に思い出の品々を捨て、
ともに住んだ家を捨て
顰蹙を買うほどの速さで
新しい人に走った。
たしかに安井さんのある種の束縛から、
解放されたのかもしれないけれど、
「解放感」というカタチで現れる「喪失感」だってある。
精神的に不安定きわまりなく、
なぜ、そうしているのか、
本人にもわからない状態で
喪失の痛手と衝撃から抜け出そうと
もがき苦しんだかもしれない。
「なーんだ、がっかりだよ」なんて
悪口言って申しわけなかったな。
夫や妻が病に倒れたり、
突然亡くなったりしたときというのは、、
周囲が想定する「悲しみ」や「苦しみ」の姿があり、
それを当事者もわかっているんですね。
こんなときの悲しみとは
こういう姿でははないか。
こんなときの苦しみとは
こういう姿ではないか。
でも、断言しますが、実際は異なる。
案外、平気なときもあれば
一瞬忘れているときだってある。
しかし、まったく思いがけないカタチで
悲しみや喪失感が襲ってくることもある。
たとえば、明るい光のもとで笑っているようなときに。
心が動かず、まるで平気であるかのような
凪いだままの悲しみだってある。
悲しみにも
寂しさにも
喪失感にも
定型の表現などないのです。
わたしも、いま、
夫の持ち物を処分しはじめようかと考えています。
そして「現実の彼」に必要なものを整えることに
力を入れようと思います。
そもそも、わたしたち夫婦それぞれの持ち物の大半は、
自分以外にとって「ガラクタ」以外の何物でもありません。
雑然とした筆記具、
安価で色あせた服、
いつの間にかため込んだあれこれ。
このすべてに思い出を見るか。NO。
このすべてをここに置いておいて
回復という名の奇跡を信じて
これからの日々を生きるか。NO。
彼の日常が事細かに書きこまれた何年分もの手帳、
大事に集めたフライフィッシングの道具、
その姿が思い浮かぶ服などなど…。
それら以外は、処分をはじめようと思います。
加藤和彦氏のように。
わたしの悲しみのかたちは、
わたしの悲しみのかたち。
喪失感もまた。
周囲の目を気にして
明日への歩みと
自分自身の心の整理を
止めてはならない。
もし、これを読んでいる人のなかに、
状況は異なっても深い悲しみのなかにいる人がいたら、
あなただけのかたちで悲しんで、と伝えたい。
それが「悲しみのカタチ」をしている必要なんてないし、
不謹慎に見えたっていいと
わたしゃ断言しますよ。
悲しみは、人それぞれ。
そして、不定形。
夫の発病から今日までのことを書いた新聞連載「献身と保身のはざまで」、
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