先日、夫の母と電話で
痰の吸引について話したら、
「お父さんの吸引機、送ろうか」と言われました。
(日本広しといえども、この会話は珍しかろう!)
お父さんとは、もう20年前に亡くなった義父のことです。
「あ…ああ。お、お義母さん、それは、いいです。
病院にありますから…」
痰の吸引機などという用途の限られた、
使いまわしにくい器具を
まだ、手元に置いていたのか。
変化の速い医療器具、
20年後には使えないぞ。
何かしてあげたいという気持ちからとはいえ、
うっすらと漂うホコリの匂いと廃墟感…。
人が一人、去ったあとに
残るものは、ガラクタ。
…としみじみ思いますが、
であってもなお、
故人の持ち物を処分することのハードルの高さを
この「吸引機、送ろうか事件」が物語っていると思いました。
お義母さんは、元々、モノを捨てない人なので
特にあれもこれも持っているのですが
故人の持ち物を捨てることは、
忘れることを意味するようで捨てられない。
のですよね。
東海林さだお氏が「まるかじり」シリーズのなかで
冷蔵庫のなかの賞味期限切れの食べものを
手に取って出し、ためつすがめつし、
しばしぼんやり考えたあと冷蔵庫に戻すときの心理を
「もっとしっかり腐るまで」
と書いておられましたが、
故人のものを捨てないのも
「もっとしっかりガラクタになるまで」に近い。
「忘れていないよ」という故人や
その親族などへのエクスキューズでもある。
我が子だったりしたら、
慟哭に近い思いがこもっているでしょう。
だから、決して悪いことではないのです。
ガラクタとともに生きて、何が悪い。
わたしがイヤなだけ。
先日、夫の部屋を片付けていて
(夫は脳内出血で倒れ、植物状態のまま入院中です)
わたしは娘に意を決して言いました。
「思い出として残したいものと
棺桶に入れてあげるもの以外は捨てる」
現実的でありたいという気持ち。
ごく微量ながら、腹いせの気持ち。
両方、あるの。人間だもの。
とはいえ実際、
今の夫に、これらのガラクタはいらない。
今、必要なのは、
清潔で着心地のいいパジャマやタオル、
ガーゼのケットなどといった
いずれはガラクタになるけれど、
今は、夫にとっての新たな必需品なのです。
その収納場所をちゃんと作ったほうがいい。
夫が倒れて間もなく9カ月。
わたしのなかで過去の夫との決別が
少しずつ進んでいるのだろうか。
それは一筋縄でいくものではなく、
度々、揺り戻しがあり、
時間が経ったときに、
ふと強い寂寥感となって襲ってくる気もしています。
ま、そのへんは、わかんない。
片付けようとしているのも
もがき、だったり、あがき、だったり、するのかも。
そのあたりも、時が教えてくれるのを待ちたい。
今は、自分のやりたいと思うことをやるのみ。
夫のガラクタは、わたしが片付ける。
できれば、わたしのガラクタは自分で片づけたい。
夫の発病から今日までのことを書いた新聞連載「献身と保身のはざまで」、
信濃毎日新聞でも連載が始まりました。
現在、熊本日日・岐阜・山陰中央新報・四国・茨城・秋田魁新報・山陽・埼玉・愛媛・神戸・徳島・北日本・岩手日報の各新聞で掲載されています。
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