月曜日にウェブマガジンのほうに
まだ暗い朝、ソックスを履くときに
オバフォーを思う理由。
というタイトルの文章を書きました。
犬の散歩に行くために
早朝着替えるとき。
腰をかがめ、
「いた!かたっ!」と
思いながら、
靴下を履く。
そのときに決まって
このブログやウェブマガジンの先にいる
ほぼ同世代の人々を想像する
というものです。
その理由として、
編集されない何か、編集されたときに必ず捨て去られる何か。誰かに言葉や映像として渡されることなく、日々、自分の中でだけ生まれ、消え、そしてまた生まれて定着していく何か。その繰り返し。繰り返しが何事かを貯め、削り、変わっていく自分の内面…そういうものを正確に言葉で表現できたとき、何か深い、本質的な共感が生まれるのではないか。そう信じたいのかもしれません。
と書きました。
そういう瞬間は、
ほかにもあります。
夫の病院からの帰りです。
商店街のとても安い肉屋さんで
オーストラリア産の赤身牛肉と
鶏ムネ肉2枚を買います。
スーのごはん用です。
その肉屋さんは、
それぞれの肉を透明のビニール袋に入れ、
それをさらに一つの透明の
ビニール袋にまとめて入れて
値段シールも貼らずに
ひょいと渡してくれます。
支払いは現金のみ。
ズシリと重たい、
赤い肉と薄桃色の肉。
ビニール越しにも
肉片の湛える
「血」という液体の
かすかに、たぷたぷとした揺れを感じます。
「ありがとうございます」と
受け取ってバッグにいれます。
その下には、もう一つの
ビニール袋が入っています。
夫の濡れた洗濯物が入った
ビニール袋です。
もう片方の肩にも
夫の着替えの入ったバッグを下げています。
トートバッグの肩ひもを片方はずし、
肉の入った生々しい袋を
ドンと入れる瞬間、
わたしの脳は
そこに「付箋」を貼ります。
早朝、まだ暗いなかで
ソックスを履くときと同じように。
大げさですが、
自分と世界の関係を
象徴するような気がするのでしょう。
夫の知らないわたし。
夫は知らない、
わたしだけが知っている
夫自身の洗濯物と、
その上に置いた
牛と鶏の肉の合わさった重み。
どちらも袋のなかで
じっとりと濡れ、
病の床でかろうじて生きているもの、
生きていたが殺されてしまったものの質量を
無言で主張します。
ダークで、少し生臭い感覚。
こんな組み合わせ、
かつて一度でも想像したか!?
それをぶったぎるみたいに
よいしょとバッグを抱えなおし、
駅に向かって歩きだすのです。
これが、私の日常だ。
こういうふうにして
生きて行くのだ。
なぜか、毎回、
諦めとも決意ともつかぬ気持ちで
仕切り直して歩み出します。
夫が倒れなければ
決して通ることのなかった道で
知ることもなかった店で
犬のために肉を買う。
その下にあるのは
夫の洗濯物。
これもまた、
編集されるときには
消えてしまう
一瞬の動作です。
昏い心の闇に
一瞬大きく反り返るように撓り、
その力をバネに
光のほうに歩み出す。
そういう明るさもあり、
それもまた嘘の明るさではないのだ、と思います。
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