このブログをはじめたころ(47歳)まで、
自分が失いそうなもの、
少しずつ失いつつあるもの、
すでに失っているかもしれないものに
ものすごーく敏感だったなあ、と思います。
この、次々に「失っていく感」の根っこにあったのは、
「若さ」であり、
「若さ」が与えてくれていた(気のする)いろいろであり、
「若さ」とともに失われていくに違いないもろもろ
だったわけですね。
今も、30代後半から40代までの女性の多くは、
(いや、それ以上の年齢の方も)
なんともいえない喪失感や焦燥感や寂寞感を、
一人じーっと耐える瞬間があるんじゃないだろうか。
ちょっとした異性との会話、
ちょっとした店の対応、
ちょっとした瞬間に鏡に映る自分の姿、
ちょっとした職場の会話、
幾千の「ちょっとした」が重なり、
「若くない自分」を
そろそろ、ほかでもない、この、自分自身が、
受け入れなくてはならないという事実。
うん。世の中にはいろんな悲劇があるから、
加齢なんて「だれでも通過すること」ではあるけれど、
別の悩みと重なったりすると、
耐えがたく思うときもあるよね。
そのころですかね。
この服装は、痛くないか。
この化粧は、若づくりでないか。
願わくば、痛くならないように気をつけながらも
自由にオシャレを楽しんでいるように見せたいものだ。
そして「大人の魅力」にたどり着きたいものだ。
なんて考えるのは。
別の言葉でいうなら、
若さにしがみついていないように見せながら
若さと同等の「現役感」を保持しつづけたい。
というやや二律背反的な、
やや自己欺瞞的な、
だからこそ切実な願いですね。
わたしも、そんな思いのなかで
このブログで日ごろの欲求不満や鬱憤を晴らしてきたのですが、
少しずつ、心境には変化が起きてきました。
その変化を一言でいうなら、
痛くてもいい。変でもいい。なんでもいい。
です(笑)
「え?そこ?結論、そこ?」と
ガックリされたかもしれませんが怒らないでくださいね。
そうなんだから仕方がないんです。
わたしは今、
自分と同世代や
自分より年上世代の
若づくりや、変な感じや、ズレた感じに
寛大になりつつあります。
たとえば、うちの近所に
「ずっと買いためてきたピンクハウスのワンピースを
かつての金子ユリさん風ヘアスタイルで着る」を
貫いている60歳前後の奥様がいらっしゃいますが、
最初のころは、「うーん。そのお顔のシワでこのフリルはいかがなものか」
と思っていたのに、
今では、「うん。それほど悪くないかも」に変わってきました。
日によっては「なかなかチャーミングかもしれないよ」とさえ
思うようになりました。
(慣れただけ、ともいえるんですが)
装うという行為は、
「自分の好き」と「他人の視線」の狭間で選択される行為ですが、
50代からは「自分の好き」の比重を
重くしていいんじゃなかろうか。
そう思っています、
「他人のまなざし」を着る時代から、
「自分のこころざし」を着る時代へ。
とでもいえばいいかな。
人生の残り時間をどう生きたいか。
そのこころざしを込めて着たい、と思います。
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